あるきメデス

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新狭山駅周辺の寺社や石仏などを巡る(埼玉・狭山)(後半)

2021-05-07 21:38:01 | ウオーキング
 2021年5月4日(火)〈続き〉

 梅宮神社のすぐ先で県道397号線・狭山環状道路を横断して南へ、上奥富集落に入り
瑞光寺へ。

 参道の両側にはよく整えられた植栽が並ぶ。


 瑞光寺は真言宗の寺院で、創建は大同2(807)年とか。本堂には室町時代かそれ以
前と推定される「紙本着色両界曼荼羅」2幅があり、市指定文化財になっているという。



 この境内も、よく手入れされた植栽が豊富で新緑がみずみずしい。
     






 境内西側には観音堂が祭られ、門の横には鐘楼もある。



 本堂前には弘法大師像や観音像が、さらにいくつかの立像が配置されていた。
     

 瑞光寺を後にして、国道16号線を横断すると南側は稲荷神社。境内西南側の斜面を上
がったところに浅間宮が祭られ、近くにツツジが咲く。
     



     
 正面に回り拝殿に参拝し、南側に並ぶ3本の鳥居をくぐって神社を出た。


 南東に進み、狭山ケーブルテレビ前で広い交差点を渡る。



 その先の民家の庭の一隅に、たくさんのハナビシソウが咲いていた。
         

          
 西武新宿線の踏切を渡って沢集落に入り、狭山環状道路から南に延びる県道126号線・
所沢堀兼狭山線を少しで、東側の深い森に覆われた天岑寺(てんしんじ)へ。

 参道の突き当たりにある惣門は沖縄風の様式。明治3(1870)年12月の火災を免
れ、創建当時の面影を留める唯一の建物とか。市指定有形文化財である。


 表裏の趣を異にした特殊な建造物で県下でも珍しいというが、中からの姿は撮り忘れた。

 天岑寺は、文禄3(1594)年に当地の旗本、小笠原安勝が開基したようで、安勝が
没した寛永18(1641)年の法要時には、朱塗りの華麗な七堂伽藍があったといわれ
ているという。

  
 僧門を入ると左手に、稲荷神社の小さい社殿や石造の五重塔、鐘楼などが続く。
      

         
          
 さらに先には「天岑寺月待供養の碑」があった。
     
 文明14(1473)年の造立で、高さ1.29m、秩父青石(緑泥片岩)で作った青
石塔婆(あおいしとうば)としては大きい部類に入るようで、市指定有形文化財である。


 大きな建物は正面の本堂のみだが、桜やケヤキ、モミジ、カシなど豊富な緑に囲まれた
広い境内が、七堂伽藍のあったという往時のことをしのばせてくれる。

 惣門に戻って天岑寺を後にして、参道の南側高みにあった法隆寺夢殿のような八角堂の
ところに回る。

 安穏寺(あんのんじ)の八角堂で、安穏寺は天岑寺の第6世 海峯碧州(元文4(1739)
年没)が隠居所として創建した曹洞宗の寺院とか。

 木像二階建ての八角堂は、宮大工界の最高峰という小川三夫棟梁による建立のよう。近
年の建築のようだが、説明パネルなどは無い。

     
 八角堂と天岑寺惣門との間の林を東に抜けたが、北側近くにあるはずの2つの神社への
道らしいのが見えない。その先に居られた方に聞くと、反対側に民家の間を下る市道があ
るとのこと。


 参道まで戻ると、下の車道に向かって下る草付きの土道があり、そばの畑にカキツバタ
がたくさん咲いていた。



 下った車道の北側は、茶畑と屋敷林などの新緑が気持ち良い。八十八夜を過ぎているの
で、そろそろ狭山茶の摘み取りも始まりそう。




 すぐ先のY字路の東側に、八坂神社と雷電神社の小さな社殿が祭られていた。

 八坂神社の鳥居をくぐった左手が雷電神社で、その名のとおり雷よけに祭ったと伝えら
れているが、咳(せき)止めに霊験あらたかとも言われているとか。
     

 正面突き当たりが八坂神社で、毎年7月中旬に「沢の天王様」と呼ばれる夏祭りが開催
されるという。
                          

 緩やかな坂を上がると新狭山小で、その先にはジャガイモ畑が広がり、もう花の咲き出
した株もある。
    

 信号のある交差点を通過して加佐志集落を進み、つぎのT字路を左折してすぐに羽黒神
社がある。


 境内は狭いが、拝殿の前に市指定天然記念物の大きな菩提樹が立ち、根元から上までや
わらかな新緑に覆われていた。
     
 幹回り約2.9m、樹高約20m、樹齢およそ550年と推定され、6~7月には淡黄
色の花をつけて芳香を放つようだ。


 当地の奥富家所蔵の古文書によれば、「この菩提樹は八幡太郎義家の家臣、伴蔵人一俊
(ばんくらんどかずとし)が羽後国柳川(山形県鶴岡市)に土着後、羽黒大権現の霊夢に
より当地にいたり土地を拓き、羽黒大権現を勧請して氏神としたときに神木として植えた」
となっているという。

 14時を過ぎたので、隣接する集会所らしい建物横に腰を下ろして昼食をする。

     
 昼食後、T字路に戻ってすぐ先、右カーブ際にある加佐志墓苑の入口横の地蔵堂へ。閉
じていた扉を開くと耳の長いお地蔵さんが祭られていた。
          
 「加佐志の耳だれ地蔵」と呼ばれ、元禄7(1694)年の造立で、耳だれの病に御利
益があるといわれているよう。

 地蔵堂の前にも、寛政11(1799)年、安永6(1777)年などと読める3体の
石像が並んでいた。
     

 昼食をした集会所の横を北に向かい、東三ツ木地区へ。もう新狭山駅南口に近いので新
しい住宅地が多く、その一角に薬師堂があった。

 薬師堂の敷地は、先ほど訪ねた天岑寺の所轄地のよう。堂内に祭られた本尊の木造薬師
座像は、14世紀に当地を拓いた三ツ木国重の守護仏といわれているという。

 ほかに日光・月光の両脇侍菩薩像や、薬師如来を守護する十二神将像の合わせて15体
が安置されているとか。

 薬師如来像は応永6(1399)年の造立、ほかも鎌倉時代後半から南北朝・室町時代、
日光・月光菩薩のみが江戸時代初期のもので、いずれも市指定文化財になっているが、中
を拝観することは出来ない。

 新興住宅地を東進して駅前通りを横切り、最後にさらに少し先の三ツ木公園へ。
     
 園内は豊富な樹木に覆われ、東南の一角に「三ツ木原古戦場の碑」が立っている。
          
 傍らには、当地で天文6(1537)年7月に小田原の北条氏と上杉氏が「三ツ木原の
合戦」と呼ばれる戦の戦場になったことなどが記されたパネルがある。


 新狭山駅南口には15時10分に戻り、15時14分発西武新宿行き上り電車に乗る。

 幾度となく西武新宿線で通過している新狭山駅周辺では、ホンダなど工業団地の四角い
建物だけが目に入っていたが、今回歩いたエリアには江戸時代やそれ以前からの歴史がた
くさん残っていて、新緑も豊富で予想以上に満足したウオーキングだった。

 (天気 快晴、距離 9㎞、地図 川越南部(1/2.5万)、「さやま観光マップ」
  中の「新狭山駅北口(奥富)&(東三ツ木・沢・加佐登・青柳)周辺コース」、歩数
  19,700)

  



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