2019年12月1日(日)
今年最後のカントリーウオークグループの例会に参加した。今回はカントリーウオーク
ならぬタウンウオークで、集合はJR山手線の五反田駅、10時11分にスタートした。
== 池田山の公園と白金台の寺町を経て白金台の児童遊園へ ==
集合した西口から東口に回り、国道1号線を北へ少しで、「池田山」とも呼ばれる東五
反田五丁目の住宅街へ。北西へと進む途中、少し大きな住宅風建物にベラルーシ共和国大
使館が設置されていた。
近くに「ねむの木の庭」と呼ぶ小公園がある。平成16(2004)年開園の約200
坪の庭園は、上皇后美智子様がご誕生からご成婚まで過ごされた正田(しょうだ)邸の跡。
園内には約60種という草花や50本の樹木があり、その中心部に公園の名となったネ
ムの木が。
さらに、上皇后陛下が皇后時代に読まれた草花などの歌が、幾つも記されていた。
池田山の静かな住宅街を北へ、上大崎一丁目との境の通りに出て東へ下り、第三日野小
の南側、台地底部の斜面に広がる豊富な樹林に覆われた池田山公園に入る。
園内は、池を中心にした回遊式庭園で、入口付近には古いつるべ井戸が残る。
何本かあるモミジの紅葉が見ごろで、池には小さい滝も流れ込む。
池の周囲を一周し、モミジやハゼの紅葉などを眺めた。
第三日野小北側の通りを西へ、少し先のマンション風建物の一角がタジキスタン共和国
大使館で、上階に国旗が掲揚されていた。
その通りは西から北へ回り込み、台地に向かって上がる。T字路に出て東へ、次のT字
路を南に入ると一帯に寺院が数カ所ある。
右手最初は光取寺で、本堂はコンクリート造り。境内右手に古い地蔵尊など数基が並び、
中央部のひとつには寛文4(1664)年と刻まれていた。道路側塀の外には「子守り地
蔵」も祭られている。
南に接するのは清岸寺(せいがんじ)で、本堂は古くからの建物のよう。この周辺の寺
では唯一、第二次大戦の戦火を免れたのだという。
入った左手に、品川区天然記念物「清岸寺のサクラ」が目に入る。芝増上寺三十六世の
祐天上人(ゆうてんしょうにん・1637~1718)のお手植えと伝えられ、樹齢250
~300年になるようだが、近年樹勢が衰えて接ぎ木したようだ。
右手墓地には「板東家之墓」がある。歌舞伎俳優、坂東三津五郎家のもので、初世から
七世までの三津五郎とその夫人の名が刻まれ、その前には大きなクチナシが色づいた実を
付けていた。
道路を挟んで東側は隆崇院。正面に青瓦屋根の本堂があり、門を入った左手には延命地
蔵大菩薩が祭られていた。
もとは、浅草山谷(さんや)の専念寺に延享4(1747)年に造立したもので、昭和
2(1927)年に当寺と合併した際、転座したという。
南側のT字路を左折、下り坂の左手に新しいお堂がある。開け放たれた扉を入ると、本
尊の阿弥陀仏を中心に、左右に脇侍の普賢(ふげん)菩薩と観音菩薩が祭られていた。
四隅上部には、金色で小さい多聞天、持国天、増上天、広目天の四天像が立っていた。
背後の新しい住宅のハゼがよい彩り。その先、右手の戒法寺↓は通過する。
T字路で折り返して北に上がる。最初の常光寺は独特の屋根でコンクリート造りの本堂
を眺めるのみ。
隣接した本願寺もコンクリート造りの本堂。掲額「選擇山」の揮毫は三木武夫元総理大
臣である。
屋根下に天女像などの彫刻があり、ブルーと白の色彩は独特な彩り。本堂前のユズが鈴
なりだった。
北に接する最上寺も、コンクリート造りの堂々たる本堂である。
これら何れの寺も浄土宗の寺で、増上寺下屋敷内子院八ヶ寺の一つのようだ。
寺町を一巡後、北側の白金台(しろかねだい)三丁目へ。民家の道路際に、真っ赤なヤ
マボウシの実がついていた。食べられるらしい。
都道312号・目黒通りの白金台交差点際に出て、南西にすぐの白金台どんぐり児童遊
園に入る。
ここが今日の昼食地、11時55分に着き、西側の盛り土上の芝生地で弁当を広げた。
この児童遊園付近は、江戸時代から明治維新までは讃岐高松藩松平家の下屋敷。明治か
ら大正2(1913)年まで海軍省・陸軍省の火薬庫、昭和8(1933)年からは一部
が朝香宮(あさかのみや)邸となり、第二次大戦後は公務員宿舎などに使用され、跡地が
平成18(2006)年に児童遊園になったという。
== 東大医科研や白金の坂などを巡り樹林豊富な自然教育園へ ==
12時37分に白金台どんぐり児童遊園を出た。目黒通りを北東へ、イチョウ並木が色
づき始めた外苑西通りの南端を過ぎる。
東京メトロ南北線・都営三田線の白金台駅上を過ぎてすぐ、北側の東京大学医科学研究
所構内に入る。
イチョウなど大きな街路樹の並ぶ園路を進むと、右手に大きなレンガ造りの建物がある。
左手に、やはりレンガ造りで平屋の近代医科学記念館のユニークな建物が、さらに進ん
で大きな東大医科研病院の前に出た。
近くの大きなツツジがよい彩りで、大きなイチョウやソメイヨシノなども色づいている。
4号館などの横を北進して、構内北側中ほどにある裏門に抜けた。門の近くのサザンカ
が花いっっぱい。
医科学研究所の北側は聖心女子学院の長いコンクリート塀が続き、その間を東進する。
学院の塀の上から、大きなクロガネモがたくさん実を見せていた。
聖心女子学院の東南端から、白金台四丁目の住宅地を東北へ。二つ目のイチョウ並木の
通りを西に入ると、下り坂の先に聖心女子学院の独特の門が見えた。
男子は門内に入れないようなので、通りの中ほどで戻る。北に伸びる三光坂の下り際辺
りから、西北へと住宅地を左右折して、聖心女子学院の東北端の細道に下り、都道305
号線に出た。
西に少し、北里研究所の高層ビル↑前から南へ上がる蜀江坂(しょっこうざか)に回り、
聖心女子学院西端の塀沿いを進む。
坂を上がってY字路際の興善寺横を西進し、明治坂に回って坂を下る。首都高2号線の
北側にある「日東坂下遊び場」と呼ぶ小公園で小休止する。
南側は、これから入る自然教育園の北端だが、高い塀に囲まれていて入れない。
南東へ延びる日東坂を上がり、イチョウ並木の外苑西通りに入る。近くのセブンイレブ
ンで飲み物などを調達し、昼食地の児童遊園を抜けて、隣接の国立科学博物館付属自然教
育園へ(入園料 一般 320円、65歳以上 無料)。
自然教育園は隣接の児童遊園同様に、400~500年前は豪族の館で、江戸時代には
高松藩主松平頼重の下屋敷に、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代には白金御用地であ
ったよう。
この間、一般の人は入れなかったため豊かな自然が残され、昭和24(1949)年に
国の天然記念物及び史跡に指定され、一般に公開されるようになったという。
受付のある教育管理棟に入り、自然教育園の自然を紹介する展示を少しだけ見て、豊富
な樹林の間に設けられた園路に入って西北へ。
園路沿いは路傍植物園になっていて、樹木や野草などの名を記したパネルが幾つも続い
ている。
その先には土塁が残されていた。400~500年前に白金長者と呼ぶ豪族が、外敵や
野火を防ぐために築かれたと考えられているらしい。
シイの巨木が目につき、周辺にはヤツデの花が多い。
分岐点で左へ進むと館跡(やかたあと)の説明板がある。この辺りは周囲を囲むU型の
土塁で、その中に白金長者の館があったと考えられているよう。
少し下り、水鳥の池のほとりに出た。池の南岸付近にたくさんのカモが見える。ここで
V字状に折り返して北に向かう。
「おろちの松」跡地の説明板付近に、10月の台風の被害か、大木が根こそぎになって
倒れていた。
その先の少しの広場は休憩所のひとつで、大きな石を囲んでベンチがある。そばで記念
撮影後、ベンチを囲んで乾杯し、ささやかな忘年の集い場所としてしばらくの間歓談する。
16時近くなったので切り上げ、少し戻って別の道に回り、水生植物園になっている池
のほとりを南東へと戻る。
「物語の松」と呼ぶ古木の赤松の横を進み、往路の分岐まで戻り、16時10分に退園
した。
都道312号線・目黒通りを西進し、16時27分にJR山手線の目黒駅に着いた。
(参加 12人、天気 晴一時曇、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、
歩行地 品川区、港区、歩数 18,700)
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今年最後のカントリーウオークグループの例会に参加した。今回はカントリーウオーク
ならぬタウンウオークで、集合はJR山手線の五反田駅、10時11分にスタートした。
== 池田山の公園と白金台の寺町を経て白金台の児童遊園へ ==
集合した西口から東口に回り、国道1号線を北へ少しで、「池田山」とも呼ばれる東五
反田五丁目の住宅街へ。北西へと進む途中、少し大きな住宅風建物にベラルーシ共和国大
使館が設置されていた。
近くに「ねむの木の庭」と呼ぶ小公園がある。平成16(2004)年開園の約200
坪の庭園は、上皇后美智子様がご誕生からご成婚まで過ごされた正田(しょうだ)邸の跡。
園内には約60種という草花や50本の樹木があり、その中心部に公園の名となったネ
ムの木が。
さらに、上皇后陛下が皇后時代に読まれた草花などの歌が、幾つも記されていた。
池田山の静かな住宅街を北へ、上大崎一丁目との境の通りに出て東へ下り、第三日野小
の南側、台地底部の斜面に広がる豊富な樹林に覆われた池田山公園に入る。
園内は、池を中心にした回遊式庭園で、入口付近には古いつるべ井戸が残る。
何本かあるモミジの紅葉が見ごろで、池には小さい滝も流れ込む。
池の周囲を一周し、モミジやハゼの紅葉などを眺めた。
第三日野小北側の通りを西へ、少し先のマンション風建物の一角がタジキスタン共和国
大使館で、上階に国旗が掲揚されていた。
その通りは西から北へ回り込み、台地に向かって上がる。T字路に出て東へ、次のT字
路を南に入ると一帯に寺院が数カ所ある。
右手最初は光取寺で、本堂はコンクリート造り。境内右手に古い地蔵尊など数基が並び、
中央部のひとつには寛文4(1664)年と刻まれていた。道路側塀の外には「子守り地
蔵」も祭られている。
南に接するのは清岸寺(せいがんじ)で、本堂は古くからの建物のよう。この周辺の寺
では唯一、第二次大戦の戦火を免れたのだという。
入った左手に、品川区天然記念物「清岸寺のサクラ」が目に入る。芝増上寺三十六世の
祐天上人(ゆうてんしょうにん・1637~1718)のお手植えと伝えられ、樹齢250
~300年になるようだが、近年樹勢が衰えて接ぎ木したようだ。
右手墓地には「板東家之墓」がある。歌舞伎俳優、坂東三津五郎家のもので、初世から
七世までの三津五郎とその夫人の名が刻まれ、その前には大きなクチナシが色づいた実を
付けていた。
道路を挟んで東側は隆崇院。正面に青瓦屋根の本堂があり、門を入った左手には延命地
蔵大菩薩が祭られていた。
もとは、浅草山谷(さんや)の専念寺に延享4(1747)年に造立したもので、昭和
2(1927)年に当寺と合併した際、転座したという。
南側のT字路を左折、下り坂の左手に新しいお堂がある。開け放たれた扉を入ると、本
尊の阿弥陀仏を中心に、左右に脇侍の普賢(ふげん)菩薩と観音菩薩が祭られていた。
四隅上部には、金色で小さい多聞天、持国天、増上天、広目天の四天像が立っていた。
背後の新しい住宅のハゼがよい彩り。その先、右手の戒法寺↓は通過する。
T字路で折り返して北に上がる。最初の常光寺は独特の屋根でコンクリート造りの本堂
を眺めるのみ。
隣接した本願寺もコンクリート造りの本堂。掲額「選擇山」の揮毫は三木武夫元総理大
臣である。
屋根下に天女像などの彫刻があり、ブルーと白の色彩は独特な彩り。本堂前のユズが鈴
なりだった。
北に接する最上寺も、コンクリート造りの堂々たる本堂である。
これら何れの寺も浄土宗の寺で、増上寺下屋敷内子院八ヶ寺の一つのようだ。
寺町を一巡後、北側の白金台(しろかねだい)三丁目へ。民家の道路際に、真っ赤なヤ
マボウシの実がついていた。食べられるらしい。
都道312号・目黒通りの白金台交差点際に出て、南西にすぐの白金台どんぐり児童遊
園に入る。
ここが今日の昼食地、11時55分に着き、西側の盛り土上の芝生地で弁当を広げた。
この児童遊園付近は、江戸時代から明治維新までは讃岐高松藩松平家の下屋敷。明治か
ら大正2(1913)年まで海軍省・陸軍省の火薬庫、昭和8(1933)年からは一部
が朝香宮(あさかのみや)邸となり、第二次大戦後は公務員宿舎などに使用され、跡地が
平成18(2006)年に児童遊園になったという。
== 東大医科研や白金の坂などを巡り樹林豊富な自然教育園へ ==
12時37分に白金台どんぐり児童遊園を出た。目黒通りを北東へ、イチョウ並木が色
づき始めた外苑西通りの南端を過ぎる。
東京メトロ南北線・都営三田線の白金台駅上を過ぎてすぐ、北側の東京大学医科学研究
所構内に入る。
イチョウなど大きな街路樹の並ぶ園路を進むと、右手に大きなレンガ造りの建物がある。
左手に、やはりレンガ造りで平屋の近代医科学記念館のユニークな建物が、さらに進ん
で大きな東大医科研病院の前に出た。
近くの大きなツツジがよい彩りで、大きなイチョウやソメイヨシノなども色づいている。
4号館などの横を北進して、構内北側中ほどにある裏門に抜けた。門の近くのサザンカ
が花いっっぱい。
医科学研究所の北側は聖心女子学院の長いコンクリート塀が続き、その間を東進する。
学院の塀の上から、大きなクロガネモがたくさん実を見せていた。
聖心女子学院の東南端から、白金台四丁目の住宅地を東北へ。二つ目のイチョウ並木の
通りを西に入ると、下り坂の先に聖心女子学院の独特の門が見えた。
男子は門内に入れないようなので、通りの中ほどで戻る。北に伸びる三光坂の下り際辺
りから、西北へと住宅地を左右折して、聖心女子学院の東北端の細道に下り、都道305
号線に出た。
西に少し、北里研究所の高層ビル↑前から南へ上がる蜀江坂(しょっこうざか)に回り、
聖心女子学院西端の塀沿いを進む。
坂を上がってY字路際の興善寺横を西進し、明治坂に回って坂を下る。首都高2号線の
北側にある「日東坂下遊び場」と呼ぶ小公園で小休止する。
南側は、これから入る自然教育園の北端だが、高い塀に囲まれていて入れない。
南東へ延びる日東坂を上がり、イチョウ並木の外苑西通りに入る。近くのセブンイレブ
ンで飲み物などを調達し、昼食地の児童遊園を抜けて、隣接の国立科学博物館付属自然教
育園へ(入園料 一般 320円、65歳以上 無料)。
自然教育園は隣接の児童遊園同様に、400~500年前は豪族の館で、江戸時代には
高松藩主松平頼重の下屋敷に、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代には白金御用地であ
ったよう。
この間、一般の人は入れなかったため豊かな自然が残され、昭和24(1949)年に
国の天然記念物及び史跡に指定され、一般に公開されるようになったという。
受付のある教育管理棟に入り、自然教育園の自然を紹介する展示を少しだけ見て、豊富
な樹林の間に設けられた園路に入って西北へ。
園路沿いは路傍植物園になっていて、樹木や野草などの名を記したパネルが幾つも続い
ている。
その先には土塁が残されていた。400~500年前に白金長者と呼ぶ豪族が、外敵や
野火を防ぐために築かれたと考えられているらしい。
シイの巨木が目につき、周辺にはヤツデの花が多い。
分岐点で左へ進むと館跡(やかたあと)の説明板がある。この辺りは周囲を囲むU型の
土塁で、その中に白金長者の館があったと考えられているよう。
少し下り、水鳥の池のほとりに出た。池の南岸付近にたくさんのカモが見える。ここで
V字状に折り返して北に向かう。
「おろちの松」跡地の説明板付近に、10月の台風の被害か、大木が根こそぎになって
倒れていた。
その先の少しの広場は休憩所のひとつで、大きな石を囲んでベンチがある。そばで記念
撮影後、ベンチを囲んで乾杯し、ささやかな忘年の集い場所としてしばらくの間歓談する。
16時近くなったので切り上げ、少し戻って別の道に回り、水生植物園になっている池
のほとりを南東へと戻る。
「物語の松」と呼ぶ古木の赤松の横を進み、往路の分岐まで戻り、16時10分に退園
した。
都道312号線・目黒通りを西進し、16時27分にJR山手線の目黒駅に着いた。
(参加 12人、天気 晴一時曇、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、
歩行地 品川区、港区、歩数 18,700)
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