あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

長岡天満宮から長岡宮跡(続き)

2006-04-17 19:22:12 | 京都を歩く
 光明寺近くで遅い昼食を終え、田んぼと新興住宅地の間の間道を東に進み、
乙訓寺(おとくにでら)に行く。

 乙訓寺は真言宗豊山派長谷寺の末寺で、推古天皇の勅願で聖徳太子が創建
したとされる乙訓地方最古の寺。延暦4年(785)、桓武天皇が長岡京造営の際
に、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座した皇太子の相良親王をここに幽閉
し、また、唐から帰朝した空海が、弘仁2年(811)に別当となり、ここを最澄が
訪れ、密教について語り合ったとされるという。

 境内のいたるところに、約2千株という牡丹がある。4月下旬の花どきには、
たくさんの人が訪れると、桜を見に来た近所の奥様が話してくれた。

 ソメイヨシノも境内あちこちにあり、やはり見ごろの花を見せていた。

 また、樹高9m、根元周囲3.55m、推定樹齢400~500年、京都府内
でも屈指というモチノキがある。昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れた
ようで、それ以前はもっと幹高があって、さらに見事だったろうと思われた。

 寺を出た頃、一時的に風が強まったが、長くは続かなかった。しかし、雨は
やみそうにない。今里の田んぼには、タケノコと並んでこの地の特産、ナノハナ
があちこちに花を見せていた。

 今里橋を渡って向日(むこう)市に入り、ちょっとした台地上にある向日神社
に東側の参道から入る。ゆるやかに上がる参道は、ソメイヨシノのトンネルと
なっていた。

 向日神社は、養老2年(718)の創建で、延喜式神明帳(えんぎしきしんめい
ちょう)に記載された式内社である。祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬が特に
篤(あつ)かったという。

 現在の本殿は、応永25年(1418)から4年の歳月をかけて建造された、
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という様式で、創建年代の残る室町
時代の代表的な神社建築として、国重文となっている。

 参道の途中に、国家に詠(よ)まれている「さざれ石」があった。岐阜県揖斐
郡(いびぐん)春日村(現、揖斐川町)の山中にあったものだという。

 長岡京市の中心街を南北に抜ける通の東に出て、国史跡・長岡宮(ながおか
きゅう)跡に行く。

 長岡宮は、延暦3年(784)から13年までの10年間、日本の首都だった
ところ。現在の国会議事堂に相当する大極殿(だいごくでん)跡や、正面入口
にあたる閤門(こうもん)跡の辺りを大極殿公園として向日市で整備中だった。

 南に進めば西向日駅、15時27分に着いた。

 これで今日の予定のコースは終わったが、まだ時間がある。この旅の最後に
東山山麓・円山公園のしだれ桜を見てから帰ることにした。

 阪急電車で終点の河原町駅まで行く。鴨川の四条大橋を渡り、八坂神社の横
を回って丸山公園へ。京都有数の桜の名所として知られているだけあり、雨にも
かかわらず観光客が多い。

 しだれ桜は見頃であったが、樹勢の弱った枝を剪定したのか、枝張りに勢い
がなく、雨の夕方ということもあり、期待したほどの花ではなかった。3日間、
あちこちで花をいっぱい見てきたからかもしれない。

 宿に戻って預けた荷を受取り、京都駅18時発ひかり382号で帰途につく。
花見どきとあり、京都駅内の観光案内所には、「本日の宿は満員」と記されて
いたので、新幹線自由席も途中まで立って帰らねばならぬかと思ったが、意外
に空いていて、京都からの乗客は全員座ることができた。(了)




 
 

  
 

 

 

  
 



 


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