今日、12月7日(金)17時18分頃、三陸沖を震源とする地震が発生しました。
私の携帯電話にも緊急地震速報が入って間もなく、ミシミシとわが家もゆれました。
宮城県には津波警報が発令され、所沢市の震度は3のようですが、もっと大きかった
ところの方、被害は無かったでしょうか…。お見舞い申し上げます。
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2012年10月16日(火)
所沢市の山里探訪会主催「とここと漫歩」の第6回、「武蔵高萩の里山を歩く」と
呼ぶウオーキングに参加した。
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集合はJR八高線の高麗川(こまがわ)駅。会の代表Iさんから挨拶とコース説明
があり、参加者25人前後は10時8分にスタートした。
線路沿いに南に少しでガードをくぐり、線路の東側へ。桜並木の続く小さい流れを
越えて県道15号の南に回り、こま川団地を南に抜ける。高根中の先にあった小さな
高根公園で小休止した。
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南側の杉などの茂る樹林に入り、周囲を森に囲まれれた静かな仙女ヶ池に回る。
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池の北岸には、ヘラブナ釣りをする10人前後の釣り人が糸を垂れていた。
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池には食虫植物のモウセンゴケが自生していたが、現在は絶滅したらしい。また、
お仙という娘を追いかけた馬が、池に飛び込んだという伝説があるという。
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池の南から東に回り、古い石仏の祭られた小さなほこらの横から再び林間の小道へ。
ヒノキなどの混交林を東北に進み、赤ずきんを被ったお地蔵さんのそばを通過し、
墓地の横を抜けて長松寺(ちようしょうじ)に入った。
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本堂は堂々たる構え。境内の植栽はよく手入れされていて、清潔なたたずまい。
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重厚な石灯ろうが並び、古い六地蔵や比較的新しい石造の聖観世音菩薩像、鐘楼や
十三塔などもあり、二つの池にはたくさんのヒゴイが泳いでいる。
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Iさんが教師時代の教え子のご子息というご住職が、池のコイのえさを持ってこら
れ、皆で二つの池に投げ入れる。
ご住職から本堂に上がらるよう勧められ、寺の歴史やご本尊のことなどをご説明下
さり、隣の広間でお茶やチョコレートもいただく。さらに、日高在住でIさんの教え
子からの和菓子の差し入れもあり、思いがけぬもてなしに感謝して寺を後にした。
ちなみに、長松寺は越生町(おごせまち)にある龍穏寺(りゆうおんじ)の末寺で、
寛永15(1638)年に三枝(さえぐさ)土佐守守江が両親を菩提するために創建
した。三枝氏は武田信玄に仕え、武田二十四将の上席にあったという。現ご住職小川
さんは19代目になる。
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寺の北側に広がる田園地帯を十字路まで進んで東に向かう。快晴で穏やかな日和、
ひこばえの伸びた田んぼや周辺の森を眺めながらの、のどかな里道歩きである。
上ノ条集落の西端付近の曲がり角に、お地蔵さんと2基の石塔が並んでいたが、石
塔のひとつは、庚申塔と馬頭観音塔とを合わせた珍しいものだった。
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集落の中ほど、I家の道路側に、女影氏館跡(おなかげしやかたあと)という土塁
が残っていた。
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土塁の上には小さいほこらがあり、お地蔵さんと板石塔婆が祭られている。
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女影氏は武蔵七党の一党、女影太郎・四郎は承久の乱で鎌倉の武将として活躍し、
宇治橋の戦いでは付近の民家を壊して筏(いかだ)を組み、川を渡って進軍したという。
南側のコスモスの咲き乱れる家の横を回り、南小畦川(みなみこあぜがわ)の南に
ある今日の参加者のひとり、Nさんの田んぼを借り、秋の日差しをいっぱいに浴びな
がら昼食をする。
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隣の田んぼには、はさ掛けの稲が残っていた。
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ここでも、近くの畑で作業していたIさんの教え子の方から、ご自分の畑で収穫した
たくさんの枝豆の差し入れをいただく。
13時35分に出発し、車のほとんど通らぬ車道を東北に向かう。上ノ条集落を抜け
るあたりの十字路際に、最近開店したという手打ちそばの店があったが、今日は定休日
だった。
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畑作地帯を進んで県道15号の女影交差点に行く。ここの女影時計台は、昭和3年
(1928)9月に御大典記念として青年により木製で建設され、道路改良で昭和51
年に現在のものが再建されたという。
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交差点を南北に走る道路は、旧鎌倉街道上道(かみつみち)である。
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鎌倉街道を少し戻り、下小畦川の南側、杉木立に囲まれた霞野(かすみの)神社に入
る。明治43(1910)年、この地の諏訪神社に中沢と女影の十二社を合祀(ごうし)
して改称したとのこと。
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境内の道路際には、「女影ヶ原古戦場址碑」が立っていた。
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高萩団地を東北に進み、高萩中と高萩小の北側にある高萩公民館に入り、しばらく
休憩する。ちなみに高萩中は、Iさんが大学卒業後、初めて教師として赴任された学校
とのこと。
館内には、当時の学校の写真や、戦前高萩にあった陸軍の飛行場に昭和天皇が行幸し
たことを伝える、昭和14(1939)年の新聞のコピーなどが展示されていた。
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国道407号のすぐ西にある、谷雲寺に入り、本堂の裏手から高萩神社に回る。東側
の国道407号・旧日光街道に出て、すぐ先の県道15号を東へ。国道バイパスの手前、
林の中のひっそりした一隅に墓地があった。
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墓地には、近くの日光街道高萩上宿(かみじゆく)の幕末の頃の侠客、高萩万次郎の
墓がある。万次郎の家は鶴屋と呼ぶ宿屋で、若き清水次郎長が殺人を犯した旅の途中に
一宿一飯の世話をしており、万次郎は次郎長を呼び捨てにした高萩一家の大親分だった
という。左隣には、万次郎の父母の墓が並んでいた。
墓の横の細道を北へ、JR川越線の線路沿いに出て日光街道に戻る。川越線のガード
下を北に抜けたところが鶴屋の跡。現在は新しい建物に代わり、屋敷跡の北隅に、石尊
大権現の石灯ろうと金比羅大権現の石碑↓が残るのみだった。
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街道の反対側には鶴屋の分家の亀屋があったとか。その前を線路沿いに進み、ゴール
の武蔵高萩駅には15時20分に着いた。
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(天気 快晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 飯能、川越南部、歩行地 日高市、
歩数 15,000)
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現在では破損してしまっていることが非常に残念です。
建立理由については、慶応二年の武州一揆の際に、万次郎が一揆勢相手に一人で対応・饗応し、高萩の宿を破壊から守ったことと関係があるのではないでしょうか。
なお、高萩の光全寺跡地にある供養塔にも、東側に「清水万次郎」の名が刻まれています。
ありがとうございました。
知らないところを歩いてみると、思いがけない史実を知ることが出来るので、
そのような発見や出会いが楽しみです。
このウェブサイト,とても興味をもって読ませて頂きました.有難うございました.
武蔵高萩駅の改築前の駅舎は、昭和天皇行幸のためにデザインされて作られた駅とか、
聞いたことがあります。
保存運動もあったのでは無いでしょうか…。