白楽天の「長恨歌」を取りあげます。「長恨歌」は、白楽天 (居易、772~846)が詠んだ唐・第6代皇帝・玄宗とその寵妃・楊貴妃の悲恋を描いた長編詩で、楽天35歳時の作とされています。中国ばかりでなく、本邦でも古くから読まれて来ている不朽の名作です。
『白氏文集』巻十二 「長恨歌」は、七言120句からなる長編詩です。この機会に、部分に分けて、全篇をジックリと読んで行くことにします。併せて、各部分に関連のある内容の和歌を取りあげます。厳密な意味で“句題和歌”に該当するか否かは不問として進めることにします。
長恨歌序章1~8句。天性の美女・楊貴妃が大人になったばかりですが、未だ世に識られていないころです。玄宗の頃から、ようやく半世紀ほど経過したころの作ですが、話は、数百年以上遡り、古代の漢の時代の出来事として書き起こしています。
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<白楽天の詩>
長恨歌 [入声十三職韻]
1 漢皇重色思傾国, 漢皇(カンコウ) 色を重んじて傾国(ケイコウ)を思う,
2 御宇多年求不得。 御宇(ギョウ) 多年(タネン)求むるも得ず。
3 楊家有女初長成, 楊家(ヨウカ)に女(ムスメ)有り 初めて長成(チョウセイ)す,
4 養在深閨人未識。 養われて深閨(シンケイ)に在り 人未(イマ)だ識らず。
5 天生麗質難自棄, 天生(テンセイ)の麗質(レイシツ) 自(オノズカ)ら棄て難く,
6 一朝選在君王側。 一朝(イッチョウ) 選ばれて君王の側(カタワラ)に在り。
7 迴眸一笑百媚生, 眸(ヒトミ)を迴(メグ)らして一笑すれば百媚(ヒャクビ)生じ,
8 六宮粉黛無顏色。 六宮(リクキュウ)の粉黛(フンタイ) 顏色(ガンショク)無し。
註] 漢皇:漢の武帝、舞台を漢に設定している。実際は唐の玄宗を指す; 傾国:
国を傾けるほどの美女、李延年の詩中、“傾城経国”に由来する(閑話休題14);
御宇:世界を統治する; 六宮:中国で、皇后と五人の夫人が住む六つの宮殿、
後宮; 粉黛:おしろいとまゆずみ、宮女たちをさす; 顏色:恐れや驚きのため
顔色が青くなるさま、完全に圧倒されて手も足もでないさま。
<現代語訳>
とわの悲しみのうた
漢の帝は女色を好み、国を傾けるほどの美女を得たいと願いながら、
皇帝の位に着いてから長年探したが、見つけることはできなかった。
この時、楊家に娘がいて、ようやく大人になったばかり、
深窓に育って未だ世に知られていない。
生まれもっての美貌がそのまま埋もれるはずもなく、
ある日突然、選ばれて天子のお側に侍ることになった。
振り返って一たびほほえむと艶めかしさが溢れ、
後宮の美しい宮女たちも色あせてしまうのである。
[参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
长恨歌 Cháng hèn gē
汉皇重色思倾国, Hàn huáng zhòng sè sī qīng guó,
御宇多年求不得。 yùyǔ duō nián qiú bù dé.
杨家有女初长成, Yáng jiā yǒu nǚ chū zhǎng chéng,
养在深闺人未识。 yǎng zài shēnguī rén wèi shí.
天生丽质难自弃, Tiān shēng lì zhì nán zì qì,
一朝选在君王侧。 yī zhāo xuǎn zài jūnwáng cè,
迴眸一笑百媚生, Huí móu yī xiào bǎi mèi shēng,
六宫粉黛无颜色。 liù gōng fěndài wú yán sè.
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楊貴妃(719~756)の生い立ちについて:名は玉環。本籍地は、蒲州永楽県(現・山西省運城市一帯)、父・楊玄琰(ゲンエン)は、北魏・冀州刺史・楊順の末裔である と。父が蜀州(現・四川省)司戸参軍として在任中に蜀州で719年6月1日に誕生した。
司戸参軍とは、官名で、地方行政区の州で戸籍や土地の事を担当する役所と言うことである。なお玉環は四女で、3人の姉がおり、後に、それぞれ、韓国夫人、虢(カク)国夫人、秦国夫人となっている。また又従兄にあたる楊国忠も中央政界で活躍するに至る。
玉環は、16歳(735)時に玄宗-武恵妃の第18子・寿王李瑁(リボウ、?~775)の妃となる。お二方を結ぶに至るイキサツは不明である。
寿王李瑁について触れます。玄宗-武恵妃間に生まれた子はすべて夭逝したようで、第18子・李清は誕生後 玄宗の兄・李憲の元に預けられた。玄宗とは疎遠で拝謁が許されることはなかったようであるが、7歳時拝謁の機会があり、その挙動に優れた才能を認められた と。
王に封じられるのは遅く、十数年経って、725年に寿(現・安徽省淮南、寿春?)の王に封じられて宮中に入った。735年、開府儀同三司を加えられ、瑁と改名。その頃、楊玉環を妃に迎えている。一時、立太子の運動があったが、武恵妃の逝去(737)もあり、立太子は叶わなかった。
玉環は、740年、長安の東・温泉地華清宮において玄宗に見初められる。その後、内縁関係にあったようですが、一時、出家し女道士(女冠)となり、道号・太真と号する。息子から妻を奪う形になるのを避ける処置とされる。
長恨歌は、35歳の白楽天が長安西郊の地方事務官であった頃の作品で、皇帝の恋愛を描いていることから広い階層の人々の興味を掻き立て、歓迎されたようである。楽天の詩名を一躍高めた名作の一つである。
本稿で読む「長恨歌」の各部分ごとに、詩句に“想い”を得たと思える和歌を一首宛て読んでいきます。ただ関連する勅撰和歌があるとは限らないであろうから、以降、私撰集をも対象に含めていきます。今回は、藤原高遠の「長恨歌」第4句に“想い”を得た歌:
唐櫛笥(カラクシゲ) あけてし見れば 窓深き
玉の光を 見る人ぞなき(大弐高遠集)
(大意) 唐で作られた化粧箱を開けてみると、光り輝く玉が目に入った、まだ誰も見た
ことのない玉であるよ
註] 唐櫛笥:“唐製の化粧箱”と“唐国の深窓”と掛けた表現でしょうか。
藤原高遠(949~1023)は、平安時代の歌人。従兄弟に藤原公任(百人一首55番、閑話休題148)がおり、中古三十六歌仙の一人。『拾遺集』以下の勅撰集に27首入集、家集に『大弐高遠集』がある。即興で作る非凡な歌才を持つ風流士であった と。
追記]
漢詩と関連する歌は、ネット上:
<千人万首 資料編 (和歌に影響を与えた漢詩文)(asahi-net.or.jp)> に依っています。
『白氏文集』巻十二 「長恨歌」は、七言120句からなる長編詩です。この機会に、部分に分けて、全篇をジックリと読んで行くことにします。併せて、各部分に関連のある内容の和歌を取りあげます。厳密な意味で“句題和歌”に該当するか否かは不問として進めることにします。
長恨歌序章1~8句。天性の美女・楊貴妃が大人になったばかりですが、未だ世に識られていないころです。玄宗の頃から、ようやく半世紀ほど経過したころの作ですが、話は、数百年以上遡り、古代の漢の時代の出来事として書き起こしています。
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<白楽天の詩>
長恨歌 [入声十三職韻]
1 漢皇重色思傾国, 漢皇(カンコウ) 色を重んじて傾国(ケイコウ)を思う,
2 御宇多年求不得。 御宇(ギョウ) 多年(タネン)求むるも得ず。
3 楊家有女初長成, 楊家(ヨウカ)に女(ムスメ)有り 初めて長成(チョウセイ)す,
4 養在深閨人未識。 養われて深閨(シンケイ)に在り 人未(イマ)だ識らず。
5 天生麗質難自棄, 天生(テンセイ)の麗質(レイシツ) 自(オノズカ)ら棄て難く,
6 一朝選在君王側。 一朝(イッチョウ) 選ばれて君王の側(カタワラ)に在り。
7 迴眸一笑百媚生, 眸(ヒトミ)を迴(メグ)らして一笑すれば百媚(ヒャクビ)生じ,
8 六宮粉黛無顏色。 六宮(リクキュウ)の粉黛(フンタイ) 顏色(ガンショク)無し。
註] 漢皇:漢の武帝、舞台を漢に設定している。実際は唐の玄宗を指す; 傾国:
国を傾けるほどの美女、李延年の詩中、“傾城経国”に由来する(閑話休題14);
御宇:世界を統治する; 六宮:中国で、皇后と五人の夫人が住む六つの宮殿、
後宮; 粉黛:おしろいとまゆずみ、宮女たちをさす; 顏色:恐れや驚きのため
顔色が青くなるさま、完全に圧倒されて手も足もでないさま。
<現代語訳>
とわの悲しみのうた
漢の帝は女色を好み、国を傾けるほどの美女を得たいと願いながら、
皇帝の位に着いてから長年探したが、見つけることはできなかった。
この時、楊家に娘がいて、ようやく大人になったばかり、
深窓に育って未だ世に知られていない。
生まれもっての美貌がそのまま埋もれるはずもなく、
ある日突然、選ばれて天子のお側に侍ることになった。
振り返って一たびほほえむと艶めかしさが溢れ、
後宮の美しい宮女たちも色あせてしまうのである。
[参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
长恨歌 Cháng hèn gē
汉皇重色思倾国, Hàn huáng zhòng sè sī qīng guó,
御宇多年求不得。 yùyǔ duō nián qiú bù dé.
杨家有女初长成, Yáng jiā yǒu nǚ chū zhǎng chéng,
养在深闺人未识。 yǎng zài shēnguī rén wèi shí.
天生丽质难自弃, Tiān shēng lì zhì nán zì qì,
一朝选在君王侧。 yī zhāo xuǎn zài jūnwáng cè,
迴眸一笑百媚生, Huí móu yī xiào bǎi mèi shēng,
六宫粉黛无颜色。 liù gōng fěndài wú yán sè.
xxxxxxxxxxxxxxx
楊貴妃(719~756)の生い立ちについて:名は玉環。本籍地は、蒲州永楽県(現・山西省運城市一帯)、父・楊玄琰(ゲンエン)は、北魏・冀州刺史・楊順の末裔である と。父が蜀州(現・四川省)司戸参軍として在任中に蜀州で719年6月1日に誕生した。
司戸参軍とは、官名で、地方行政区の州で戸籍や土地の事を担当する役所と言うことである。なお玉環は四女で、3人の姉がおり、後に、それぞれ、韓国夫人、虢(カク)国夫人、秦国夫人となっている。また又従兄にあたる楊国忠も中央政界で活躍するに至る。
玉環は、16歳(735)時に玄宗-武恵妃の第18子・寿王李瑁(リボウ、?~775)の妃となる。お二方を結ぶに至るイキサツは不明である。
寿王李瑁について触れます。玄宗-武恵妃間に生まれた子はすべて夭逝したようで、第18子・李清は誕生後 玄宗の兄・李憲の元に預けられた。玄宗とは疎遠で拝謁が許されることはなかったようであるが、7歳時拝謁の機会があり、その挙動に優れた才能を認められた と。
王に封じられるのは遅く、十数年経って、725年に寿(現・安徽省淮南、寿春?)の王に封じられて宮中に入った。735年、開府儀同三司を加えられ、瑁と改名。その頃、楊玉環を妃に迎えている。一時、立太子の運動があったが、武恵妃の逝去(737)もあり、立太子は叶わなかった。
玉環は、740年、長安の東・温泉地華清宮において玄宗に見初められる。その後、内縁関係にあったようですが、一時、出家し女道士(女冠)となり、道号・太真と号する。息子から妻を奪う形になるのを避ける処置とされる。
長恨歌は、35歳の白楽天が長安西郊の地方事務官であった頃の作品で、皇帝の恋愛を描いていることから広い階層の人々の興味を掻き立て、歓迎されたようである。楽天の詩名を一躍高めた名作の一つである。
本稿で読む「長恨歌」の各部分ごとに、詩句に“想い”を得たと思える和歌を一首宛て読んでいきます。ただ関連する勅撰和歌があるとは限らないであろうから、以降、私撰集をも対象に含めていきます。今回は、藤原高遠の「長恨歌」第4句に“想い”を得た歌:
唐櫛笥(カラクシゲ) あけてし見れば 窓深き
玉の光を 見る人ぞなき(大弐高遠集)
(大意) 唐で作られた化粧箱を開けてみると、光り輝く玉が目に入った、まだ誰も見た
ことのない玉であるよ
註] 唐櫛笥:“唐製の化粧箱”と“唐国の深窓”と掛けた表現でしょうか。
藤原高遠(949~1023)は、平安時代の歌人。従兄弟に藤原公任(百人一首55番、閑話休題148)がおり、中古三十六歌仙の一人。『拾遺集』以下の勅撰集に27首入集、家集に『大弐高遠集』がある。即興で作る非凡な歌才を持つ風流士であった と。
追記]
漢詩と関連する歌は、ネット上:
<千人万首 資料編 (和歌に影響を与えた漢詩文)(asahi-net.or.jp)> に依っています。