愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題279 陶淵明(6) 園田の居に帰る 五首 其四 (2) 

2022-09-12 09:07:41 | 漢詩を読む

帰田後、子供たちを連れて村里を散策しているが、井戸や竈(カマド)の跡が残る屋敷跡に差し掛かった。薪を背に、通りかかった人から、そこの住人は皆亡くなったことを知らされる。将に「一世(イッセイ) 朝市(チョウシ)を異(コト)にす」だな!と 嘆息しきりである。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其四 (2) 

 9借問採薪者, 借問(シャモン)す 薪(マキ)を採(ト)る者に,

10此人皆焉如。 此(ココ)の人 皆(ミナ)焉(イズ)くにか如(ユ)くと。

11薪者向我言、 薪者(シンジャ) 我に向って言う、

12死没無復餘。 死没(シボツ)して復(マ)た餘(アマ)す無しと。

13一世異朝市、 一世(イッセイ) 朝市(チョウシ)を異(コト)にすと言う、

14此語真不虚。 此の語 真に虚(キョ)ならず。

15人生似幻化、 人生 幻化(ゲンカ)に似たり、

16終当帰空無。 終(ツイ)には当(マサ)に空無(クウム)に帰すべし。

  註] 〇朝市:“朝”は、朝廷の“朝”、“市”は賑やかな街; 〇幻化:まぼろし。

 

<現代語訳> 

 9たきぎ拾いの人を見掛けて尋ねてみた、

10ここに棲んでいた人たちはどこへ行ったのだろうと。

11その者が私に向かって言うには、

12皆死んでしまって一人も残っていませんよと。

13一世・三十年で宮廷と街の盛り場も入れ替わってしまうといわれるが、

14その言 真にそうだ。

15人生は幻にも似て、

16 結局は無に帰してしまうのだ。

        [主に松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

   帰园田居 其四 (2) Guī yuántián jū  qí sì (2) [上平声六魚・七虞通韻]  

 9借问采薪者, Jièwèn cǎi xīn zhě 

10此人皆焉如。 cǐ rén jiē yān .       [上平声六魚]

11薪者向我言、 Xīn zhě xiàng wǒ yán,

12死没无复余。 sǐ mò wú fù .  

13一世异朝市、 Yīshì yì cháoshì,

14此语真不虚。 cǐ yǔ zhēn bù .   

15人生似幻化、 Rénshēng shì huànhuà,  

16终当帰空无。 zhōng dāng guī kōng .  [上平声七虞]

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陶淵明自身の詩および梁・蕭統の“陶淵明伝”(蕭統伝)を頼りに、淵明の動静を追っていきます。南村に居を移して後は、隣近所ばかりでなく、広く、多くの人たちと積極的に親交を結んでおり、常に、お酒が仲を取り持っているようだ。

 

殷晋安(インシンアン)について:(412、49歳《與殷晋安別》から)「南村に移居後、二人は隣り合って住んでいた。ともに杖を携えて気の向くまま遊びまわり、自然の風光に酔いしれて、時の経つのも忘れたものだ。官途にある貴君と隠居の身のわたしとはおのずと姿勢が異なり、いずれ別れる時があろうと思っていたが、早くもそのような事態に至るとは。」

 

「山川を隔てること千里、楽しく語り合う機会もそうは無かろう。勝れた才の者は世に埋もれることはない、江湖に残るのは私のような貧賤な者ばかり。いつかこの地を通る折には、私を思い出して訪ねてくれたまえ」。

 

殷晋安とは、殷景仁のことで、先に晋安郡に勤めていたから殷晋安という。景仁は、東晋政権の実力者、大尉・劉裕の命で、都の建康(現南京)に赴任することになり、赴任に当たって淵明がこの友人に贈った詩である。 

 

王弘(オウコウ)について:(蕭統伝から) 「淵明は朝廷から著作郎として徴召されたが、断った。江州刺史・王弘は淵明との親交を切に願ったが、果たせない。ある時淵明が廬山に行った折、弘は淵明の旧友・龐通之(ホウトウシ)に言い含めて酒を用意させ、途中の栗里(リツリ)で彼を出迎えさせた。」[注:著作郎とは、秘書省の国司編纂官、特に名儒碩学を抜擢して任命する。] 

 

「淵明には脚の病気があり、一人の門生と二人の息子にかつがせた竹編みの駕籠に乗っていたが、そこに着くや、喜んで一緒に酒を飲み交わした。暫くして弘がやって来た。淵明は、彼に対しても別段いやな顔を見せなかった」。[注:王弘は劉裕お気に入りの人物で、性偏狭であったという。淵明は、劉裕に対して好意的な思いを持っていなかったようだ。] 

 

「ある年(418、淵明54歳か)、九月九日の重陽節に、偶々酒がなかったので、家を出て近所にある咲き乱れる菊の叢の中に入って座り込み、両手に一杯の菊を摘んでいた。と、その時突然、弘の許から酒が届けられたので、その場で飲み始めて酔って帰宅した」。

 

同年作と推定される淵明の作品に《九日閑居 幷序》がある。その詩:「田園に閑居して以来“重九”の呼称を愛でるようになった。田園一面、菊は咲き乱れているが、如何せん、肝心な濁酒を手にする宛てがない。それで空しく“重九の華”を服して懐いを詩に託する。」

 

「毎年巡りくる九月九日の吉日には菊酒を楽しむ。酒は諸々の心配事を除き去り、菊は体内の毒素を除き、老化を抑えると言う。なのに、あばら家の主、何故に酒杯を手にせず時の過ぎゆくのを見過ごすのか。埃の積もった盃を見て、空っぽの酒樽は恥ずかしかろう。眼前には秋の菊だけがいたずらに咲き誇っている。」

 

顔延之(ガンエンシ)について:(蕭統伝から) 「顔延之が劉柳(リュウリュウ)の後軍功曹であった時(415、淵明51歳)、潯陽で淵明と深い交友関係を結んだ。後に延之は始安郡太守となって赴任した(423、淵明59歳)が、潯陽を訪れた際には、毎日淵明の所へ来て飲み、必ず心行くまで飲んで酔っ払っていた。」[注:功曹は文書を司る属吏。始安郡は現桂林市。]

 

「延之は立ち去る折に、二万銭を出して淵明にあげたことがあった。淵明はそれをそっくり居酒屋に預けて、その中から随時酒代を差し引いて貰うことにした。王弘は延之の酒席に加えて欲しいと願ったが、何日経っても叶えられなかった。」

 

顔延之(384~456)は、淵明より20歳年下、詩人である。臨沂(リンギ)(山東省)の出で、曽祖父の代に南へ移った。貧窮から身をおこし、晋・宋の交代期に、身を興し孝武帝のとき金紫光禄大夫(キンシコウロクタイフ)に至った。酒を好み、傍若無人の性質であったので左遷されたりもしたようだ。[注:金紫光禄大夫とは、役職的区分はなく、ある地位・格式を表す名誉職名である]。

 

詩風は技巧を凝らした美しさで、謝霊運(385~433)と並べて「顔謝」の称があり、また鮑照(ホウショウ、414?~466)を合わせて「元嘉(ゲンカ)三大詩人」とも呼ばれている。長寿を保ち文壇の領袖(リョウシュウ)として重きをなすに至る。淵明が没した際、その死を悼んで『陶徴士誄(ルイ)』を書いたことで知られる。[注:“誄”とは、生前の功徳を称え、その死を悲しむことをいう。] 

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