(8番) わが庵は 都のたつみ しかぞ住む
世をうじ山と 人はいふなり
喜撰法師 『古今和歌集』 雑下・983
<訳> 私の庵は都の東南にあって、このように(平穏に)暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。(小倉山荘氏)
ooooooooooooo
世間の人は、「何ぞ辛いことでもあったのかな?この世の中がいやになって、宇治山に隠れ棲んでいるようだ」と噂している。私はこのように心身ともに安寧な暮らしをしているというのに。やれやれ 人の噂はほんに仕様ないわ。
と 飄飄と独り言ちている喜撰法師の様子が思い浮かんできます。紀貫之と同時代(?)の人で真言宗の僧侶、歌人です。というのは、その生没年や素性がほとんど知られていない人です。紀貫之は、六歌仙の一人に選んでいます。
歌ではやはり“掛詞”が出てきます、“憂じ”と“宇治”。また “然(シカ)”と“鹿” の表現もそれらしく思えますが、この表現は必ずしも“掛詞”とは評価されていないようです。漢詩化では、前者は活かしましたが、後者は敢えて無視しました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声一先・上平声十五刪韻]
山中悠々 山中(サンチュウ)悠々(ユウユウ)
我庵在京辰巳辺, 我が庵は京の辰巳(タツミ)の辺に在(ア)り,
過活身寧也心閑。 身は寧(ヤス)く也(マタ)心閑(シズカ)に過活(クラ)しおる。
人言逃避世憂悒, 人は言う 世の憂悒(ユウユウ)から逃避(トウヒ)し,
只好隠居宇治山。 宇治山に隠居する只好(ホカナ)かったかと。
註]
辰巳:東南。 過活:暮らす。
寧:安らかに落ち着いている。 閑:安静なさま。
憂悒:憂鬱である。 只好:せざるを得ない。
※ “憂”悒と“宇治”山は、掛詞“うじ山”の意を活かした。
<現代語訳>
山中悠々
私の庵は都の東南の辺りにあって、
身は安らかに また心も静かに暮らしているのだ。
世の人々は、私が世の憂さ、煩わしさから逃れて、
宇治の山に隠遁せざるを得なかったのだ と噂しているようだ。
<簡体字およびピンイン>
山中悠々 Shān zhōng yōu yōu
我庵在京辰巳边,Wǒ ān zài jīng chénsì biān,
过活身宁也心闲。guòhuó shēn níng yě xīn xián.
人言逃避世忧悒,Rén yán táobì shì yōuyì,
只好隐居宇治山。zhǐhǎo yǐnjū Yǔzhì shān.
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宇治川の辺は、平安時代の中ごろ以降、貴族の別荘地として賑わっていたことは先(閑話休題147)に触れました。喜撰法師が活躍したころは、上掲の歌から推察されるように、特に山手は世捨て人が棲家を求めていた処のようであった。
“宇治”の地名は、古く記紀の時代に遡り、第十五代応神天皇の皇子、菟道稚郎子(ウジノワクイラツコ)に由来するという。応神天皇とは、中国南北朝時代(439~589)の『宋書』などに現れる「五人の倭国王」の最初の一人・讃に当たるのではないかとされている天皇である。
“宇治山”は、歌枕の一つとされているようですが、現在の地図の上では“宇治山”はなく、“喜撰山/喜撰岳”と表記された山がそうである と。実際に喜撰山中には、喜撰法師に所縁があると伝わる“洞穴”などが存在するようである。
今日、歌の作者・喜撰法師の名・“喜撰”を冠した名称は、宇治地方の、山名に限らず、地名、施設名、商品銘柄などに度々見ることができる。喜撰法師その人についてはほとんど知られていないのに拘わらず である。歌の威力というべきか。
喜撰法師は、先に触れたように、その生没年をはじめ、伝説の類は別にして、その素性もほとんど知られていない。和歌も上掲の歌のほか、もう一首が残されているだけである。
ただ、『古今和歌集』の仮名序に、紀貫之による次のような記載があり、その人柄を偲ぶことができるようだ。「ことばかすかにして始め終わり確かならず。言わば秋の月を見るに、暁の雲に逢えるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはして知らず。」
話は変わって、江戸時代の狂歌師、随筆家・蜀山人こと大田南畝(1749~1823)に『狂歌百人一首』なる作品があります。小倉百人一首をパロデイ化したものである。上掲の歌と関連した一首が非常に素晴らしいので紹介します。
わが庵は みやこの辰(タツ)巳(ミ) 午(ウマ)ひつじ
申(サル)酉(トリ)戌(イヌ)亥(イ) 子(ネ)丑(ウシ)寅(トラ)う治
十二支を“辰”に始まり卯(ウ)まですべて順序良く並べて歌にしたものです。“五七五七七”としっかりと形を整え、“卯で治まり(宇治)”と、ご丁寧に“掛詞”も用意されていました。
世をうじ山と 人はいふなり
喜撰法師 『古今和歌集』 雑下・983
<訳> 私の庵は都の東南にあって、このように(平穏に)暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。(小倉山荘氏)
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世間の人は、「何ぞ辛いことでもあったのかな?この世の中がいやになって、宇治山に隠れ棲んでいるようだ」と噂している。私はこのように心身ともに安寧な暮らしをしているというのに。やれやれ 人の噂はほんに仕様ないわ。
と 飄飄と独り言ちている喜撰法師の様子が思い浮かんできます。紀貫之と同時代(?)の人で真言宗の僧侶、歌人です。というのは、その生没年や素性がほとんど知られていない人です。紀貫之は、六歌仙の一人に選んでいます。
歌ではやはり“掛詞”が出てきます、“憂じ”と“宇治”。また “然(シカ)”と“鹿” の表現もそれらしく思えますが、この表現は必ずしも“掛詞”とは評価されていないようです。漢詩化では、前者は活かしましたが、後者は敢えて無視しました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声一先・上平声十五刪韻]
山中悠々 山中(サンチュウ)悠々(ユウユウ)
我庵在京辰巳辺, 我が庵は京の辰巳(タツミ)の辺に在(ア)り,
過活身寧也心閑。 身は寧(ヤス)く也(マタ)心閑(シズカ)に過活(クラ)しおる。
人言逃避世憂悒, 人は言う 世の憂悒(ユウユウ)から逃避(トウヒ)し,
只好隠居宇治山。 宇治山に隠居する只好(ホカナ)かったかと。
註]
辰巳:東南。 過活:暮らす。
寧:安らかに落ち着いている。 閑:安静なさま。
憂悒:憂鬱である。 只好:せざるを得ない。
※ “憂”悒と“宇治”山は、掛詞“うじ山”の意を活かした。
<現代語訳>
山中悠々
私の庵は都の東南の辺りにあって、
身は安らかに また心も静かに暮らしているのだ。
世の人々は、私が世の憂さ、煩わしさから逃れて、
宇治の山に隠遁せざるを得なかったのだ と噂しているようだ。
<簡体字およびピンイン>
山中悠々 Shān zhōng yōu yōu
我庵在京辰巳边,Wǒ ān zài jīng chénsì biān,
过活身宁也心闲。guòhuó shēn níng yě xīn xián.
人言逃避世忧悒,Rén yán táobì shì yōuyì,
只好隐居宇治山。zhǐhǎo yǐnjū Yǔzhì shān.
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宇治川の辺は、平安時代の中ごろ以降、貴族の別荘地として賑わっていたことは先(閑話休題147)に触れました。喜撰法師が活躍したころは、上掲の歌から推察されるように、特に山手は世捨て人が棲家を求めていた処のようであった。
“宇治”の地名は、古く記紀の時代に遡り、第十五代応神天皇の皇子、菟道稚郎子(ウジノワクイラツコ)に由来するという。応神天皇とは、中国南北朝時代(439~589)の『宋書』などに現れる「五人の倭国王」の最初の一人・讃に当たるのではないかとされている天皇である。
“宇治山”は、歌枕の一つとされているようですが、現在の地図の上では“宇治山”はなく、“喜撰山/喜撰岳”と表記された山がそうである と。実際に喜撰山中には、喜撰法師に所縁があると伝わる“洞穴”などが存在するようである。
今日、歌の作者・喜撰法師の名・“喜撰”を冠した名称は、宇治地方の、山名に限らず、地名、施設名、商品銘柄などに度々見ることができる。喜撰法師その人についてはほとんど知られていないのに拘わらず である。歌の威力というべきか。
喜撰法師は、先に触れたように、その生没年をはじめ、伝説の類は別にして、その素性もほとんど知られていない。和歌も上掲の歌のほか、もう一首が残されているだけである。
ただ、『古今和歌集』の仮名序に、紀貫之による次のような記載があり、その人柄を偲ぶことができるようだ。「ことばかすかにして始め終わり確かならず。言わば秋の月を見るに、暁の雲に逢えるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはして知らず。」
話は変わって、江戸時代の狂歌師、随筆家・蜀山人こと大田南畝(1749~1823)に『狂歌百人一首』なる作品があります。小倉百人一首をパロデイ化したものである。上掲の歌と関連した一首が非常に素晴らしいので紹介します。
わが庵は みやこの辰(タツ)巳(ミ) 午(ウマ)ひつじ
申(サル)酉(トリ)戌(イヌ)亥(イ) 子(ネ)丑(ウシ)寅(トラ)う治
十二支を“辰”に始まり卯(ウ)まですべて順序良く並べて歌にしたものです。“五七五七七”としっかりと形を整え、“卯で治まり(宇治)”と、ご丁寧に“掛詞”も用意されていました。