(28番)山里(ヤマザト)は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目(ヒトメ)も草も かれぬと思へば
源宗于朝臣『古今集』冬・315
<訳> 山里では、とりわけ冬の寂しさが身にしみて感じられるなあ。誰も訪ねてこないし、草木も枯れてしまったと思うと。(板野博行)
oooooooooooooo
山里にあっては、そうでなくとも寂しい感じがあるのに、冬にはとりわけ寂しさが増す。人も草木もすべての生き物に息吹が感じられなくなるから と。ただ「人目も」には、作者個人の置かれた境遇の反映があるように思われますが。
「悲しいかな 秋の気たるや」(宋玉:九弁)と、“秋”期の寂しさを詠う詩や歌は、漢詩、歌の世界ともによく見ます。“冬”を題材にした歌は、百人一首の中でこの歌が唯一ということです。
作者・源宗于(ムネユキ、9世紀末~939)は、皇族の血を引く人ですが、出世に恵まれず不遇の生涯であったようです。三十六歌仙の一人で、紀貫之などと仲がよく、同時代の人である。上の歌を五言絶句にしてみました。
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<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
山村里冬季 山村の冬季
山村够寂了, 山村では够(ジュウブン)に寂しきに,
尤其冬季熟。 尤其(トリワケ)冬季の熟期には寂しさなお募る。
因考人離去, 人は離去(タチサ)り、
還草木萎縮。 還(マ)た 草木の萎縮(イシュク)を 考える因(タメ)なり。
註]
山村:山里。 够:足りる、十分である。
尤其:とりわけ、抜きん出て。 熟:十分に、熟した。
因:(原因、理由)のために。 離去:人の足が離れる。
萎縮:萎れ、枯れる。
<現代語訳>
山里の冬
山里はそうでなくとも十分に寂しさを感じるのに、
とりわけ冬の最中には一層寂しさが募る。
人の足が遠のき、訪れる人もなく、
また 草木も萎れ、枯れてしまったことが思われるからである。
<簡体字およびピンイン>
山村里冬季 Shāncūn lǐ dōngjì
山村够寂了,Shāncūn gòu jìle,
尤其冬季熟。yóuqí dōngjì shú.
因考人离去,Yīn kǎo rén lí qù,
还草木萎缩。hái cǎomù wěisuō.
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歌は、難解な技巧表現もなく、率直な思いが詠われているように思う。漢詩も五言絶句として率直に翻訳できました。ご批評頂ければ有難い。
作者・源宗于朝臣は、58代光孝天皇の孫で、59代宇多天皇の甥に当たります。894年に臣籍降下されて “源”姓を賜っている。最終官位は正四位下右京太夫ということであり、必ずしも恵まれた境遇ではなかったようである。
源宗于は、三十六歌仙の一人に上げられ、優れた歌人である。諸歌合せに参加し、また紀貫之との贈答歌が伝わっており、交流があったようである。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入っており、家集に『宗于集』がある。
平安時代中期の説話集に『大和物語』がある。恋愛・伝説などを主題にした和歌を主とした歌物語集である。その中に右京太夫の名で、源宗于が身の不遇をかこつ挿話が幾篇かあるという。
その一つ。ある時、宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松(ミル)という海藻を奉られたことがあり、そのことを題材にした歌を読む会が催された。その折、源宗于は次の歌を詠った と:
「沖つ風 ふけいの浦に 立つ波の なごりにさえや われはしずまぬ」
[沖から風が吹いて、吹井の浦に打ち寄せた波の残りの浅い水たまりにさえ 石のついた海松のように、わたしは沈んだまま浮かびあがれないでいるのでしょうか]
源宗于は、官位を上げてくれ といつもの思いを吐露したのでした。しかし宇多天皇は、「なんのことだろうか。この歌の意味が解らない」と側近にもらしたという。なお、海松(ミル)は、緑藻の一種、吹井の浦は、現和歌山県・紀ノ川河口あたりをいう と。
この歌を読み合わせてみると、「山里は…」で、冬の寂しい情景を主題とされたのには、やはり不満の境遇にあることが投影されたものと想像される。その上で、漢詩では、“そう(冬)でなくとも”と強調する起句から書き起こしました。
一方、“山里”を俗世界から隔てられた別世界であると詠む歌もいくつかある。先に紹介した藤原公任(閑話休題148)の一首を紹介しておきます:
「憂き世をば 峰の霞や へだつらむ なほ山里は 住みよかりけり」(千載和歌集)
[憂き世を峰にかかる霞が隔てて見えなくしているのだろう やはり山里というのは住みよいものだったよ](小倉山荘氏)。
源宗于朝臣『古今集』冬・315
<訳> 山里では、とりわけ冬の寂しさが身にしみて感じられるなあ。誰も訪ねてこないし、草木も枯れてしまったと思うと。(板野博行)
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山里にあっては、そうでなくとも寂しい感じがあるのに、冬にはとりわけ寂しさが増す。人も草木もすべての生き物に息吹が感じられなくなるから と。ただ「人目も」には、作者個人の置かれた境遇の反映があるように思われますが。
「悲しいかな 秋の気たるや」(宋玉:九弁)と、“秋”期の寂しさを詠う詩や歌は、漢詩、歌の世界ともによく見ます。“冬”を題材にした歌は、百人一首の中でこの歌が唯一ということです。
作者・源宗于(ムネユキ、9世紀末~939)は、皇族の血を引く人ですが、出世に恵まれず不遇の生涯であったようです。三十六歌仙の一人で、紀貫之などと仲がよく、同時代の人である。上の歌を五言絶句にしてみました。
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<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
山村里冬季 山村の冬季
山村够寂了, 山村では够(ジュウブン)に寂しきに,
尤其冬季熟。 尤其(トリワケ)冬季の熟期には寂しさなお募る。
因考人離去, 人は離去(タチサ)り、
還草木萎縮。 還(マ)た 草木の萎縮(イシュク)を 考える因(タメ)なり。
註]
山村:山里。 够:足りる、十分である。
尤其:とりわけ、抜きん出て。 熟:十分に、熟した。
因:(原因、理由)のために。 離去:人の足が離れる。
萎縮:萎れ、枯れる。
<現代語訳>
山里の冬
山里はそうでなくとも十分に寂しさを感じるのに、
とりわけ冬の最中には一層寂しさが募る。
人の足が遠のき、訪れる人もなく、
また 草木も萎れ、枯れてしまったことが思われるからである。
<簡体字およびピンイン>
山村里冬季 Shāncūn lǐ dōngjì
山村够寂了,Shāncūn gòu jìle,
尤其冬季熟。yóuqí dōngjì shú.
因考人离去,Yīn kǎo rén lí qù,
还草木萎缩。hái cǎomù wěisuō.
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歌は、難解な技巧表現もなく、率直な思いが詠われているように思う。漢詩も五言絶句として率直に翻訳できました。ご批評頂ければ有難い。
作者・源宗于朝臣は、58代光孝天皇の孫で、59代宇多天皇の甥に当たります。894年に臣籍降下されて “源”姓を賜っている。最終官位は正四位下右京太夫ということであり、必ずしも恵まれた境遇ではなかったようである。
源宗于は、三十六歌仙の一人に上げられ、優れた歌人である。諸歌合せに参加し、また紀貫之との贈答歌が伝わっており、交流があったようである。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入っており、家集に『宗于集』がある。
平安時代中期の説話集に『大和物語』がある。恋愛・伝説などを主題にした和歌を主とした歌物語集である。その中に右京太夫の名で、源宗于が身の不遇をかこつ挿話が幾篇かあるという。
その一つ。ある時、宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松(ミル)という海藻を奉られたことがあり、そのことを題材にした歌を読む会が催された。その折、源宗于は次の歌を詠った と:
「沖つ風 ふけいの浦に 立つ波の なごりにさえや われはしずまぬ」
[沖から風が吹いて、吹井の浦に打ち寄せた波の残りの浅い水たまりにさえ 石のついた海松のように、わたしは沈んだまま浮かびあがれないでいるのでしょうか]
源宗于は、官位を上げてくれ といつもの思いを吐露したのでした。しかし宇多天皇は、「なんのことだろうか。この歌の意味が解らない」と側近にもらしたという。なお、海松(ミル)は、緑藻の一種、吹井の浦は、現和歌山県・紀ノ川河口あたりをいう と。
この歌を読み合わせてみると、「山里は…」で、冬の寂しい情景を主題とされたのには、やはり不満の境遇にあることが投影されたものと想像される。その上で、漢詩では、“そう(冬)でなくとも”と強調する起句から書き起こしました。
一方、“山里”を俗世界から隔てられた別世界であると詠む歌もいくつかある。先に紹介した藤原公任(閑話休題148)の一首を紹介しておきます:
「憂き世をば 峰の霞や へだつらむ なほ山里は 住みよかりけり」(千載和歌集)
[憂き世を峰にかかる霞が隔てて見えなくしているのだろう やはり山里というのは住みよいものだったよ](小倉山荘氏)。