愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 218 飛蓬-125 小倉百人一首:(藤原基俊)契りおきし

2021-07-12 08:48:07 | 漢詩を読む
75番 契(チギ)りおきし させもが露(ツユ)を 命にて  
      あはれ今年の 秋も去(イ)ぬめり 
           藤原基俊(『千載和歌集』雑・1023)
<訳> お約束してくださいました、よもぎ草の露のようなありがたい言葉を頼みにしておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo 
出家した息子の栄達の糸口となる機会を得られるよう、面識のある有力者にご尽力をお願いしたところ、「私が世にある限り叶わぬことがあろうか、信じるがよい」と心強いお言葉を戴いていた。だがこの秋も空しく過ぎようとしているよ と嘆いています。

藤原基俊(1060~1142)は、息子・光覚が興福寺の維摩会の講師に選ばれるよう、度々前太政大臣・忠通(76番)にお口添えをお願いしていた。同講師を務めると、先が開かれるのである。だが中々実現しないことに、息子を思う父として不満を訴えた歌でした。

『新古今和歌集』に載る清水寺の釈教歌:“なほ頼め……:「私がこの世にいるうちは頼りにしていいぞ」”の趣旨を“専憑恃”の表現に託して、当歌を七言絶句としました。 

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<漢詩原文および読み下し文>  [上声四紙韻] 
 疼愛児子父的心 疼愛(カワイイ)児子をもつ父の親心 
大事拜托知人士, 大事を知る人士(ジンシ)に拜托(ハイタク)するに,
放心建議専憑恃。 専(モッパラ)憑恃(ヒョウジ)せよとの建議(イケン)に放心(アンシン)する。
靠山約定待下去, 約定(ヤクソク)を靠山(タノミ)として待(マチ)下去(ツヅケ)ているに,
嗟惋今秋徒過矣。 嗟惋(アア) 今秋も徒(イタズラ)に過ぎていくよ。 
 註] 
  大事:重要なこと、此処では息子の出世の糸口となること。
  拜托:お願いする。      人士:有力な人。
  専憑恃:ただひたすら頼りにしておれば、力の限りなんとかしますよ。
  靠山:頼みにして。      嗟惋:ああ、嘆息。 
  矣:感嘆の語気を表す。 

<現代語訳> 
 可愛い子を持つ父の親ごころ  
大事な事柄を知りあいの有力なお方にお願いしたところ、
“ひたすら頼りにしていなさい”との心強いお言葉を戴き、安心していた。
その約束を頼りにずっと待ち続けているのだが、
ああ、今年の秋もむなしく過ぎてしまうよ。

<簡体字およびピンイン> 
 疼爱儿子父的心 Téng'ài érzi fù de xīn 
大事拜托知人士, Dà shì bàituō zhī rénshì,
放心建议专凭恃。 fàngxīn jiànyì zhuān píngshì.
靠山约定待下去, Kàoshān yuēdìng dāi xiàqù,
嗟惋今秋徒过矣。 jiē wǎn jīnqiū tú guò .
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当歌、並びに漢詩中“専憑恃”の意味を理解するための、歌の要、“させもが露を” の部についての補足説明。基俊の依頼に対し、忠通は、次の歌を贈ったと: 

なほ頼(タノ)め しめじが原の さしも草 
  我が世の中に あらむかぎりは (『新古今和歌集』釈教歌・1916、清水観音) 
 [それでもなお信じ続けなさい、しめじが原のさしも(=させも)草のように胸を 
 焦がすほどに。私がこの世にあるかぎり、きっと望みは叶うでしょう。]

「私に任せて」との“お言葉”で、基俊にとっては、頼もしい恵の“露”(=甘露、不死の神酒)であり、安心して頼りとしていたことでしょう。

基俊は、藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の四男で、道長の曽孫に当たる。名門の出ながら、従五位上左衛門佐に終わった。自らの学識を誇って高慢であり、公事(クジ)に怠惰であったからであろうと推測されている。

歌壇への登場は遅かったようであるが、院政期における歌壇で指導的立場にいた。堀河朝歌壇で頭角を現し、『堀河百首』や『内大臣歌合』に出詠するなど、自ら詠歌を進めていた。また鳥羽・崇徳朝では諸家の歌合で判者を勤め、その判詞に歌論を展開した。

歌風は、伝統的立場を重んじ、古典尊重の規範的態度を崩さず、典拠を重視した高い格調の歌を目指していた。一方、新しい革新的な歌風を求める源俊頼(74番)と鋭く対立しつつ、共に歌壇の指導的立場にあり、俊頼-基俊時代と称されている。

漢詩文にも通じ、詞歌集『新撰朗詠集』(鳥羽帝のころ成立?)を撰している。朗詠用の和歌・漢詩を集め、『和漢朗詠集』(1013頃、藤原公任撰)に倣って編集されたという。歌学に関し、大江匡房(73番)らと『萬葉集』の訓点付与の作業にも関わっていた。

晩年には俊成(83番)を弟子に迎えている。『新撰朗詠集』の他『相撲立詩歌』を撰している。漢詩集『本朝無題詩』に17首の漢詩を遺しており、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に100首入っている。家集に『基俊集』がある。中古六歌仙の一人である。1138年、出家し、覚舜と称した。1142年死去、83歳。
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