愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 217 飛蓬-124 小倉百人一首:(権中納言匡房)高砂の

2021-07-05 09:30:42 | 漢詩を読む
73番 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 
      外山(トヤマ)の霞 たたずもあらなむ 
           権中納言匡房(マサフサ)(『後拾遺集』春・120) 
<訳> 遠くにある高い山の、頂にある桜も美しく咲いたことだ。人里近くにある山の霞よ、どうか立たずにいてほしい。美しい桜がかすんでしまわないように(小倉山荘氏)。 

oooooooooooo 
遥かな若葉の山の面に満開の桜が、恰もピンクの真珠が散りばめられたかのように点在している。どうか今は、手前の里の丘陵に霞が立ち、桜を望む視界を遮らないように祈るよ と。遠近・縦・横に広がる悠々とした、長閑な里の春の情景を詠っています。

当歌は、内大臣・藤原師通(モロミチ)の邸での宴で、“遥かに山の桜を望む”の歌題で詠われた権中納言・大江匡房の歌である。お酒の効果も働いているのではなかろうか。実景ではなく、想像の世界を詠った歌のようである

匡房は、幼少より神童と称えられ、8歳で『史記』・漢書に通じ、11歳で漢詩を賦したとされている。当歌には漢籍の素養の影響が感じられるように思われる。七言絶句としました。歌のスケールと趣旨を活かされたか、不安ではある。

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<漢詩原文および読み下し文>   [下平声十一尤韻] 
 賞山上桜花    山上の桜花を賞す  
遥高山頂美花稠、 遥(ハル)かな高い山の頂 美花 稠(チュウ)たり、 
恰似鑲嵌淡紅球。 恰(アタアカ)も淡紅(タンコウ)の球(タマ)を鑲嵌(チバメタ)るに似たり。 
願慎前陵冒雲気、 願うらくは前の陵(オカ)に雲気の冒(タ)つこと慎むを、 
恐遮蔽景入双眸。 景の双眸(ソウボウ)に入るを遮蔽(シャヘイ)するを恐れる。 
 註] 
  稠:稠密である、咲き誇っている。  鑲嵌:ちりばめる。 
  淡紅:桜色の。           球:真珠。 
  冒:立ち上がる。          雲気:雲霧、もや。 
  双眸:両眼。
<現代語訳> 
 山上の桜花を賞す   
遠い山の頂きに桜の花が咲き誇っている、 
恰も桜色をした真珠をちりばめたように見える。 
前の丘陵で靄が立ちこめないよう祈っているよ、 
立ち込めた靄で美しい視界が遮られることを恐れるのである。 

<簡体字およびピンイン> 
 赏山上樱花     Shǎng shānshàng yīnghuā    
遥高山顶美花稠,Yáo gāo shān dǐng měi huā chóu,
恰似镶嵌淡红球。Qiàsì xiāngqiàn dàn hóng qiú.
顾慎前陵冒云气,Gù shèn qián líng mào yúnqì, 
恐遮蔽景入双眸。kǒng zhēbì jǐng rù shuāngmóu. 
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匡房(1041~1111)は、中国の史書・詩文を学ぶ“紀伝道”(=”文章道”)を家学とする学者の家柄・大江氏の裔で、幼少のころから神童と称されていた。なお曽祖父・母は、匡衡・赤染衛門(59番)であり、父は、大学頭・成衡である。

匡房は、詩文に関する自叙伝『暮年紀』に「4歳時に初めて書を読み、8歳時に史漢に通い、11歳時に詩を賦して、世では神童と言われていた」と記している と。16歳に文章得業生(モンジョウトクギョウセイ)となったが、18歳で合格した菅原道真より早い。

1058年、官吏登用試験・対策に及第、1060年、治部少丞に任じられ、従五位下に叙せられた。トントンと昇進したが、以後昇進は停滞、一時引退を考えたが、思い留まる。1067年、東宮・尊仁(タカヒト)親王(のちの後三条天皇)の学士を務め、信頼を得て、以後実力を発揮していく。

後三条帝が即位する(1068)と、貞仁(サダヒト)親王(のちの白河天皇)の東宮学士、さらに白河帝が即位する(1073)と、善人(タルヒト)親王(のちの堀河天皇)の東宮学士となり、三代続けて東宮学士を務め、「三帝の師」と称された。

3代の天皇に信頼されていた。後三条朝では、蔵人に任じられ、左衛門権佐、右小弁を兼ね、三事兼帯の栄誉を得る。親政「延久の善政」の推進に重要な役割を果たす。

白河朝でも引き続き蔵人に、また左大弁に任じられ、1086年、従三位に昇叙され、公卿に列した。堀河朝では、正三位・参議(1088)、従二位・権中納言(1094)と順調に昇進した。1097年、大宰権帥に任じられる。鳥羽帝の1111年、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去。享年71。

和歌や漢詩はもとより,歴史、有職故事、遊芸から兵学まで通じていたと言われ、著書も多方面に亘っている。和歌については、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首が入集されている。歌集に『江帥集』がある。

多岐にわたる著書のうち、幾つかを挙げると、文人として:『本朝無題詩』、『中右記部類紙背漢詩集』、『本朝続文粋』;有職故事書『江家次第』;世事逸話集の『遊女記』、『傀儡子記』、『狐媚記』;伝記の『本朝神仙伝』等々。

匡房が誕生した際には、曾祖母・赤染衛門は健在であったようで、曽孫の為に産衣(ウブキヌ)を縫わせて、次の和歌を添えて贈っている。いわゆる予祝(ヨシュク、前祝い)の歌である:

雲のうえに のぼらむまでも 見てしがな 
  鶴の毛衣(ケゴロモ) 年ふとならば (『後拾遺和歌集』巻7 賀・438;赤染衛門) 
 [殿上人になるまでも見届けたいものだ 産着を着るこの子は年経て大きくなった
 らきっとそうなっていることでしょう]
 
コメント
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