愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 455  歌と漢詩で綴る 西行物語-8  あはれあはれ

2025-02-17 10:31:51 | 漢詩を読む

 西行の出家前あるいは出家前後の作とされる歌について、出家の動機を探るべく、個々の歌を取り上げ、その漢詩化を進めつつ、内容の検討を進めています。出家の動機の一つとして、”失恋”が考えられており、前回に続き、”恋”に関わる歌を取り上げます。

 前回、自分を産み育てた親さえも恨めしく思う と、恋の苦しみを吐露する歌を読みました。今回の歌は:

 

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき 

 

 斯くも苦しい状況にあるが、今生は致し方のないことだ。だが、来世もそうであろうか、否、好転してほしいものだ と希望を訴えているように思われます。

 

和歌と漢詩    

oooooooooooo     

<和歌>

あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 

  来む世もかくや 苦しかるべき    [山710]

 [註]〇2,3句:現世はたとえどんなに恋に苦しもうと、ままよ、それはそれで仕方がない。

 (大意) ああ、ああ、この世は斯くも苦しいのであるが、それはそれでも仕方ない。そうだとしても、来世もこのように苦しまなければならないのであろうか。

<漢詩>

 現世嘆息   現世の嘆息    [下平声八庚韻] 

唉唉使余厄, 唉(アア)唉(アア) 余(ワレ)を使(シ)て厄(クルシ)める,

沈沈吾恋情。 沈沈(チンチン)たる吾が恋情。

現世真無奈, 現世では真(マコト)に無奈(シカタナシ),

只恐來世縈。 只(タ)だ恐る 來世に縈(マトイ)つくを。

 [註]〇唉唉:(溜息をつく声)ああ;〇厄:悩む、苦しむ; 〇沈沈:沈んでいるさま; 〇無奈:しようがない、しかたない; 〇縈:まといつく、絡みつく。

<現代語訳>

 現世の嘆き

ああ ああ、わたしを苦しませる、

遂げられず、胸奥に沈んだ我が恋情。

現世では仕方ないとしても、

来世でも同じ苦しみが纏わりついてくるのであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

 现世叹息         Xiànshì tànxí

唉唉使余厄,Ài ài shǐ yú è,    

沉沉吾恋情.  chénchén wú liànqíng.  

现世真无奈,Xiànshì zhēn wúnài, 

只恐来世萦。zhǐ kǒng láishì yíng

ooooooooooooo     

 “あはれあはれ”と、深く詠歎するフレーズから始まるこの歌は、架空の、創作的な内容というより、現実的状況を想像させる。非常に繊細な心の持ち主、青年・義清(ノリキヨ)の本音であるように思わせる。

 “恋”の話題になると、万葉から平安時代まで一貫して歌の底流にあったと思われる “もののあはれ” の“情、こころ” が思い起こされます。

 今回の歌を含めて、西行の歌でもその潜んでいる“こころ”が表現されていると思われ、“漢詩”化に当たって、最も難儀な点となる。旨く“漢詩”として表現できたか、心細い事ではある。

 

≪呉竹の節々-3≫ ―世情― 

 鳥羽上皇の勧めに従って、崇徳天皇は、4歳の体仁(ナリヒト)親王に、養子にした上で譲位し、近衛天皇としました。ただ、近衛天皇即位の宣命には、体仁親王について、「皇太子」ではなく、「皇太弟」と書かれてあったのでした。すなわち、崇徳天皇は、公式には「子」ではなく、「弟」に譲位したことになり、“院”となる要件を欠いていたことになります。

  公式には、近衛天皇の父は鳥羽上皇であり、鳥羽上皇が引き続き院政を行い、治天の君として実権を保持できることを示しています。鳥羽上皇は、崇徳天皇およびその後裔を追い出すことに成功したわけである。崇徳院は、怒りを胸に仕舞い、グッと抑え、機会はまだあろう、とその時期を待つべく、耐えています。 

 義清にとって、警護対象の鳥羽上皇、一方、年齢も近く、むしろ親愛の情を抱いているであろう崇徳天皇/上皇。上記の如き宮廷内の状況は、義清にとって快い状況ではなかったであろう と推測されます。(続く) 

 

井中蛙の雑録

〇先の≪閑話休題451  …「西行物語」-4   伏見過ぎぬ≫の稿において、義清の“馬の遠乗り”の出発点を“御所”と想定して書き進めました。しかし、出発点が“御所”では、牛車や人々の往来で混んでいるであろう大都市の“街路”を馬に鞭打ち駆けることになる。どうもシックリ行かない。

  以下の如く訂正致します。

―: スタート地点は、伏見近傍、桂川・鴨川の合流点辺り、現「鳥羽離宮跡」、旧白河・鳥羽離宮地内の“馬場”であろう。

 そこを出発、東南方へ走り [伏見] を過ぎ、向きをやゝ南にとり、宇治川に沿って [岡の屋] (現地図上、黄檗の辺り) に、そこで向きを北北東に変え、山麓を走り [日野] (現地図上、醍醐の辺り) に至る。片道の走行距離は、現在の道路事情でも12 km前後と推定される。やはり“遠乗り”である。

〇 “岡の屋”や“日野”の名称は、現行、市販地図帳では見当たりません。これらの地点の確定は、南京都の土地勘のある古い友人がやってくれました。地図上あるいはカーナビなどを使い、走行距離をも算出されました。

 現行地図上、颯爽と風を切って馬を駆る義清の姿が想像・追跡できて、歌の世界が活き活きと蘇ってきます。感謝!! ここにお礼を申し上げます。

〇 ヤーツ!ヤーツ! と馬に鞭打つ一青年・義清。出家前、若い頃の義清の颯爽たる姿である。

23歳で出家後は、恐らくは、菅笠を被り、手甲・脚絆に、ワラジ穿き、錫杖を杖つき、カラン カランと鳴らしながら、北は陸奥、西に四国、東は伊勢…と、歩み続けるお坊さん・西行法師です。向後の歩みは、逐一、本文の部で紹介していきます。乞う、御期待!

 

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