著者のひとりの北山修氏は、私たちの年代では「あの北山修」さんと「あの」という接頭語がつきます。作詞:北山修、作曲:加藤和彦「あの素晴らしい愛をもう一度」は永遠の名曲のひとつですね。
本書では、その北山氏が、専門の精神分析学の視点から古事記に見られる日本人の精神性の基に迫っていきます。そして、もうひとりの著者、橋本氏は国文学の立場から「古事記」を解釈し、北山氏と共振した主張を展開します。
両者が採り上げたテーマは「日本人の『原罪』」です。キーワードは「見るなの禁止」。
(p183より引用) 山幸彦神話でふたたび登場する「見るなの禁止」も、やはり男の裏切りに終わるが、ここでもついに禁を破った男の〈罪〉が問われることはない。このような思考のあり方は、現代にいたるまで根強く我々の考え方を規制しつづけている。
古事記における「イザナキ」「山幸彦」、昔話における「与ひょう」・・・、彼らは、「見るな」という禁を破ることにより、対象との間で決定的な別れを経験します。
(p183より引用) 「見るなの禁止」が、日本神話や日本文化のなかでどのように機能していたのかを考えると、つぎのような意味を持つものであったと言うことができるように思う。それは、肯定的にとらえるならば、異質な存在が深刻な対決をすることなく共存するための、現実的な解決法であったと。・・・
しかしこれを、去っていく「異類」の視点から見直して批判的にとらえるとどうなるであろうか。・・・去っていく側の立場に立って別離を考えてみると、それは「異類」性を背負わされて追放されることなのである。
著者のふたりは、「禁を破った側」の一種不誠実な態度、そして、そういう行いに対し日本人一般が示す極めて寛容な態度に着目します。
(p184より引用) いささか厳しい言い方をするならば、これらの神話や昔話が語っているのは、人間が自らの異類性を棚上げにして生きることの知恵、深刻な問題を掘り下げずに表層の安定を継続する知恵なのである。
この点は、まさに「曖昧さ」を残す日本人の思考・行動様式の根本に関わる指摘ですね。タブーを破った側の責任や罪悪感がそれにより軟化されてしまうのです。
これは古事記の別のシーンでも現れます。登場人物は「スサノヲ」と「アマテラス」です。
(p159より引用) スサノヲが犯した「天つ罪」を咎めることなく「詔り直す」ことによって、善意に解釈するというアマテラスの態度は、問題のすり替えであるとも言える。〈罪〉を〈罪〉として認めないこのような思考方法は、現在にいたるまでこの国に継承されてきているように思われる。そしてそれが、しばしば国際的な軋轢を生む結果となっているのではなかろうか。
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