タイトルが気になったので借りてみた本です。
内容としては、「文化人」を茶化した感じで揶揄しているものかと思っていたのですが、思いの外、興味深いしっかりした論考もありました。
冒頭、東京大学大学院情報学環助教の南後由和氏が「文化人の系譜」と題した小文を記しているのですが、この解説はなかなか秀逸だと思います。その中から、私の興味を惹いたくだりをいくつかご紹介します。
まずは、戦争を挟んで、「文化人」が登場したころの記述です。
戦前にはインテリの部類に入らなかった司会者・芸能人たちが、戦後しばらくした頃に、その社会的地位を急上昇させました。その趨勢について(まさに当時の「文化人」たる)政治学者丸山眞男氏はこうコメントしています。
(p18より引用) 「インテリの芸能人化」と「芸能人のインテリ化」という二つの傾向が合流して、その両方を共通に括る言葉が必要になり、「文化人」という言葉が出て来た。
「文化人」という言葉が「広辞苑」に登場するのは、1983年の第3版が初めてだということです。第2版が発行された1969年には未掲載であったので、「文化人」は1970年代にその地位を確立したようです。
こういった(いわゆる)「文化人」の登場については、当然のごとく批判・疑問の声があがりました。その代表者としての評論家福田恒存氏の主張はこういった内容でした。
(p32より引用) 進歩的文化人批判の先鋒として知られる評論家の福田恒存は、進歩的文化人の思い上がりや、時流に合わせた迎合的態度を厳しく批判して、次のように述べた。
《私の気になるのは、「文化人」たちが民衆を愚昧から救ひあげてやらうなど身のほど知らずのことを考へてゐることです》。
《「文化人」はなんでもかんでも、あらゆることに原因や理由を指摘でき、意見を開陳できなければならないのでせうか。(中略)なにか発言しなくてはならぬとしても、自分にとつても切実なことだけ口をだすという習慣を身につけたらどうでせうか。・・・》
この傾向は今も変わっていないですね。むしろ、その低俗化は「コメンテーター」というよく分からない肩書きの方々の増殖で、ますます救い難い状況になっていると感じます。
「文化人」は、メディアにおいては、「専門家」と「一般大衆」との間に位置するインタフェースとしての機能を果たしているとの指摘もあります。しかしながら、自己責任を伴わない「語る価値のない短言」や「一般大衆」が既に潜在的に感じていることに「迎合した甘言」を口に出すだけなら、自らのステイタスを貶め続けるだけになるのでしょう。
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