時々聞いている茂木健一郎さんがホスト役のポッドキャストの番組に著者の白井さんが出演されていて、その論旨がちょっと気になったので手に取ってみた本です。
まず書き留めておくのは、本書で白井氏が中心概念として取り上げている「永続敗戦」の説明部分です。
(p48より引用) 敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。(中略)
彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く―それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。
ここでいう「彼ら」とは、戦後長きにわたり権力を独占している
(p48より引用)事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力
を指しています。
また、「戦後」の意味付けとして、著者はこうも記しています。
(p115より引用) そもそも「戦後」とは要するに、敗戦後の日本が敗戦の事実を無意識の彼方へと隠蔽しつつ、戦前の権力構造を相当程度温存したまま、近隣諸国との友好関係を上辺で取り繕いながら―言い換えれば、それをカネで買いながら―、「平和と繁栄」を享受してきた時代であった。
こちらの指摘も首肯できるところがあります。“戦後”ではありつつも、戦前からの継続性を温存している「戦争を終わらせていない状況の継続」です。
そして、著者は、「永続敗戦は『戦後の国体』そのものになった」と語ります。「天皇にとっての安保体制」がまさにそれだと説いています。
(p170より引用) 『英霊の聲』を書くことによって昭和天皇の戦争責任を真正面からとらえ、「平和と繁栄」に酔い痴れる高度成長下の戦後日本社会の精神的退廃 (それは本書が「永続敗戦」と呼ぶものだ) の元凶をそこに求めた三島由紀夫は、まさに慧眼であった。三島は、日米安保体制が昭和天皇によって手引きされた可能性など知る由もなかったであろうが、直感的に事の本質を見抜いていたと言える。・・・真の問題は、「国体」と呼ばれる一個のシステムの意味と機能を考えることにほかならない。それは、アメリカを引き込むことによって、敗戦を乗り越え、恒久的に自己を維持することに成功した。安保体制の確立を経て、ポッダム宣言受諾の条件であった「国体の護持」の究極的な意味合いとは、米国によってそれを支えてもらう、ということにほかならなくなった。
とても興味深い論考だと思います。