いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。
五木寛之さんのエッセイを見かけると、いまだについ手が伸びてしまいます。「地図のない旅」というタイトルの本ははるか昔読んだ記憶があるのですが、長い年月を経ての “新” 版です。
内容は、最近の五木さんの語りのとおりで、特に目新しい視点があるわけではないのですが、それでも日々の暮らしのなかでの気づきや想いを辿るにつけ、やはり気になるフレーズには出会えますね。
それら中から私の関心を惹いたくだりをいくつか覚えとして書き留めておきます。
まずは、「人間が馴化するとき」の章から。
コロナ禍で予定されていた講演がすべてキャンセルになった五木さん、「リモート講演」の声がかかり、実際話してみた実感をこう語っています。
(p98より引用) 目の前にあるカメラを話す相手ときめて、ふだん考えていることを話し言葉でしゃべりだすと、意外にスムーズに話すことができた。むしろ高い演壇から多数の聴衆にむかって語りかけるより、はるかに個人的なおしゃべりの感じで話ができたのだ。
なるほど、これからはこういう講演のやり方もあるのだな、と納得するところがあった。
意外ですね、もちろん聴衆からの反応が返ってこない等の物足りなさを感じながらではありますが、五木さんにとっては「リモート」という未知の環境も満更ではなかったようです。
そして、「『不語似無憂』という言葉」の章。
「過去」を語ることを自らの義務だと感じ始めた五木さんですが、かつてはこんな経験もされたようです。
(p138より引用) 三十代の頃、思いたって録音機をかついで各地の町や村を回ったことがあった。引き揚げてきた人びとの記憶を資料としてまとめておきたかったのだ。
しかし、その試みはあえなく挫折し た。本当に辛い体験をした人びとは、口をとざして、
「いまは、おかげさまで何とかやっておりますから」
と静かに微笑するだけだったのである。
「不語似無憂」という言葉が、そのときほど身にしみたことはなかった。
“語らない決意” が、その意味するところを雄弁に語っているということでしょうか。
もうひとつ、「思い出す父のため息」の章から。
(p208より引用) いまになって私がつくづく後悔するのは、そんな父親の若い頃の話をほとんど聞く機会がなかったことだ。
少年の頃はどんな本を読んでいたのか。
師範学校生徒時代の夢は何だったのか。
どんなふうにして母と知り合ったのか。
時代に対してどういう感想を抱いていたのか。
軍隊ではどんな兵士だったのか。
などなど、聞き残したことばかりが頭に浮かび、ふと「あーあ」とため息をついてしまう自分に気づくのである。
私も亡き父からこういった昔話を聞くことはありませんでした。そのときは “照れ” が先に立っていたんでしょうね。五木さんの嘆息の気持ちは、今となってはよくわかります。
最後におまけ。本書「『老婦人の夏』の記憶」に登場している五木寛之さん作詞の「indian summer」( 麻倉未稀〕はこちらです。
2012年に公開された日本映画です。
テレビドラマシリーズの劇場版とのことですが、私はドラマ自体観ていないので、登場人物の設定も物語の背景等も全く予備知識がない状態で観てみました。強いて観た動機といえば、戸田恵梨香さんが主演だったということぐらいでしょうか。
作品の印象は、ドタバタ系のスリラー・コミックの映像版といった感じで、その割にはところどころに中途半端なメッセージ性が見え隠れしていて、正直なところほとんど楽しめませんでした。
続編もあるようなのですが、よほどでないと手を伸ばさないでしょうね。
いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の津野香奈美さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。
科学的データに基づくパワーハラスメントの発生要因や対策等の研究成果を体系的に整理し解説した著作です。
私が今まで勤務した会社でも少なからずパワハラは発生し、それらへの対応に関与してきた経験もあることからちょっと気になって手に取ってみました。
数々の興味深い指摘がありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「パワハラ発生のメカニズム」についてです。
本書では、パワハラの発生するメカニズムして「個人的パワハラ」と「構造的パワハラ」の2類型を挙げています。いずれも気になるところですが、私としてのより強い関心は「個人的パワハラ」にあります。
津野さんは「個人的パワハラの発生原因」を、まず以下のように概括しています。
(p134より引用) 人がいじめやパワハラをしてしまう原因に、自尊心の不安定な高さ、感情知能の低さ、自分の言動が他者にどのように影響するのかの認識の甘さ、他者に対する期待水準の高さがあることがわかっています。
これらの原因の中で一番に指摘されているのが「自尊心の不安定な高さ」です。
“自尊心” を持つこと自体は、向上心を高める動機ともなるので必ずしも悪いことではないのですが、実際の組織や社会の場で扱おうとするとどうやらかなりの難物のようです。
一時、“自尊心” を高めるような教育が流行りましたが、成果は期待とは裏腹でした。
(p137より引用) 「あなたは存在しているだけで素晴らしい」という教育やメッセージが繰り返された結果起こったのは、期待されていた成績向上や犯罪率の低下ではなく、むしろ「負の効果」でした。高い自尊心、その中でもナルシシズムは、プライドを傷つけられたことへの報復として他者を攻撃すること、そして自尊心の高い人は、低い人と比べて内集団(自分が所属する集団)を優遇する傾向にあり、それが差別や偏見を助長させる可能性があることが示されたのです。
「不安定な自尊心」は、自尊心が傷つくのを恐れるあまり “自己防御” に走り、他者を攻撃したり排除したりしてしまうとのことです。
もう一点、「構造的パワハラ」についても、ひとつ「キーコンセプト」を押さえておきましょう。
それは、「ソーシャル・キャピタル (social capital) 」という概念です。
(p167より引用) シーシャル・キャピタルは、ネットワークや規範、信頼などの社会組織の特性のことを指します。社会疫学や公衆衛生学の分野でよく使われている概念で、メンバー同士のつながりが強く、お互いを信頼しており、相互規範が共有されている時に、ソーシャル・キャピタルが高いと判断します。
この「シーシャル・キャピタル」 の負の側面がハラスメントの発生要因に関係します。
(p168より引用) ただ、団結力が強かったり、同質性が高かったりすることは、異質なものを排除する力の強さにつながります。日本は島国であり、「同じ日本人」として高い同質性が期待される傾向にあります。
同質性が高い組織や社会では、「部外者」だと認識された途端に排除されるリスクが高まると津野さんは指摘しています。
そして、最後に書き留めておく要諦は、「パワハラや部下のメンタルヘルス不調の予防に資するリーダーシップ形態」についてのアドバイスです。
この論点について、津野さんは、まず「マネジメントとリーダーシップの違い」についての整理を紹介しています。
(p235より引用) ハーバード大学ビジネススクール名誉教授であるジョン・P・コッタによると、マネジメントは「計画と予算の策定」「組織編成と人員配置」「統制と問題解決」によって構成されるのに対し、リーダーシップは「方向性の設定」「人心の統合」「動機づけ」から構成されると定義されています。
管理職であればいわゆるマネジメント業務を行うのは当然ですが、その管理職にリーダーシップがあるかどうかは別問題です。
“マネジメントとリーダーシップのバランスが重要” とのことですが、ここで言う「リーダーシップ」についても、マギル大学のヘンリー・ミンツバーグ教授による興味深い指摘を踏まえ、津野さんはこうアドバイスしています。
(p237より引用) つまり、「人が協力して働き、個を尊重し、組織をより良い場にするために互いを結び付けていくこと」が「コミュニティシップ」であり、これを実現するために必要な程度のリーダーシップで十分ということです。
業務成果向上や職場環境の改善には、しばしば上司の「リーダーシップ」が必須と言われますが、どうやら不必要なまでに強調され過ぎているようです。行き過ぎた “リーダーシップの発揮” は、パワハラと紙一重ということですね。
ここでのキーコンセプトは “個の尊重” です。
「個別配慮型リーダーシップ」がもっともパワハラ発生のリスクが低いとのこと、“個人へのリスペクトと一人ひとりへの心配り”、パワハラ防止に止まらず、あらゆる人間関係のシーンで忘れてはならない姿勢ですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。
霊長類学者の山極寿一さんと若手動物言語学者の鈴木俊貴さんとの対談ですが、タイトルをひと目見て惹き付けられました。
類人猿や鳥類をはじめとしたさまざまな動物のコミュニケーションの最新研究成果から「ヒト」という生物の本性まで興味深い話題が尽きないのですが、それら中から、私の関心を惹いたくだりをいくつか覚えとして書き留めておきます。
まずは、「Part2 動物たちの心」の章から。
鈴木さんの研究対象であるシジュウカラの鳴き声には、「単語」としての意味だけでなく、「文法」(語順による意味の違い)も存在するとのこと。これには大いに驚かされましたが、さらに、それを証明するための「実験」の構成がとても面白いものでした。
ちょっと長いのですが引用しておきます。
(p65より引用) 鈴木 ・・・すなわち、シジュウカラの鳴き声にも、「警戒が先、集まれが後」というルールが あるんです。
山極 なるほど。ではそのルールを破ると......?
鈴木 そこが重要なポイントです。このルールを破っても意味が通じるなら、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」は「ピーッピ」と「ヂヂヂヂ」を続けて鳴いているだけで、文ではない。でも、ルールを破ったときに意味が通じないなら、それは文法があることを意味する。
実験で、シジュウカラに「ピーッピ・ヂヂヂヂ」という正しい語順の鳴き声を聞かせると、警戒しながらスピーカーに近づいてきました。しかし、ルールを破った「ヂヂヂヂ・ピーツピ」を聞かせると、シジュウカラはそんなに警戒しないし、スピーカーにもほとんど近付いてこなかったんです。
つまり、シジュウカラはきちんと語順を理解して、「ピーッピ・ ヂヂヂヂ」=「警戒して集ま れ!」であることを理解したということです。
理に適った “比較実験” なのですが、よく思いつくものだと感心至極です。もちろん、研究者としては「持っていて当然」の素養なのだと思いますが。
もう一点、「Part4 暴走する言葉、置いてきぼりの身体」の章から。
ネット空間上のやり取りやAIとの対話が急速に進展している現代社会の行き様を憂える二人の議論です。
(p205より引用) 山極 しかし、仮想空間やAIには、感情や文脈はありません。巧妙に、あるかのように見せかけてはいるけれど、ない。すごく自然にしゃべっているように見えるAIも、言語と論理によって成り立っている計算機に過ぎない。
私はそれが怖いんです。
巧妙に現実世界を模倣しているけれど、実は言語化できない感情や身体性を切り捨てている仮想空間やAIが存在感を増すと、我々人間の脳もそちらに引っ張られて、感情や身体性を捨てることになるんじゃないのかと。
鈴木 たしかに、AIに頼ることで、言語の出現によって生じた問題がさらに加速するようなことがありそうですね。共感のない時代、言語化されたルールだけを重んじて文脈をおろそかにする時代……。
合理性や論理性が最優先される社会の恐ろしさは、古くは「2001年宇宙の旅」を嚆矢としてSF映画で描かれる代表的なモチーフです。それが急速に “フィクション” ではなくなりつつあるのが現代だとすると、そこには、そういった流れを押し止める何某かの緩衝材や中和剤が必要となるように思います。
さて、そういった対応が為される前に “シンギュラリティ” に到達してしまうのでしょうか・・・。
(p205より引用) でも、僕たちが持っている感情こそ、大切な基準なのではないでしょうか。僕たちにその感情が宿っているということは、それが長い進化の歴史の中で維持されてきたということですから。
危惧すべき合理性に勝る価値基準について、鈴木さんはこう語っています。
さて最後に、本書を読み通しての感想です。
一言、“面白かった”ですね。人間社会のコミュニケーションの将来をあれこれ考えるに、とても示唆に富む刺激的な対話集でした。
動物たちは何をしゃべっているのか? 山極 寿一 (著), 鈴木 俊貴 (著)
ウェイ・ダウン (DVD) フレディ・ハイモア
ウォール・ストリート (DVD) マイケル・ダグラス