この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

凍りのくじら。

2005-12-21 23:57:42 | 読書
辻村深雪著、『凍りのくじら』、読了。

「私が、自分に、名付けたのは少し・不在。私は、どこにいても、そこに執着できない。誰のことも好きじゃない。誰とも繋がれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも、見苦しいし、息苦しい。どこの場所でも生きていけない」

2005年は結局一番の贔屓作家である乙一の新刊が一冊も出なかった。そのことを考えると私的な読書ライフとしては物足りない一年だった、そういってもよいはずなのですが、彼の不在を補ってあまりあるほどの才能に出会えました。
その才能の持ち主とはいうまでもなく『凍りのくじら』の作者である辻村深雪です。
彼女は紛れもなく本物です。そう断言していいと思います。

人は、常に自らの居場所を探し求める生き物ではないでしょうか。幸いにして、見つかることもあるが、見つからないこともまた、多い。
本作の主人公である芦沢理帆子はどこにいても自らの不在を感じています。彼女は誰とでも、どのグループとも仲良くできる特技のようなものを有していたが、理帆子が心の中では誰も彼も見下していたことを誰も知らない。少し・不自由、少し・フリー、少し・不完全、といったふうに彼女は藤子・F・不二雄が自らの作品を少し・不思議と称したことに倣って、回りの人間を少し・何とかと当て嵌める、倣岸ともいえる遊びを密かに楽しんでいた。
おそらく、この作品の読者の半分ぐらいは主人公である理帆子を嫌うんじゃないかな。文章は一人称なので、彼女の思っていることがストレートに書かれています。読んでいくと、キツイこといってるなぁと思うこともしばしばです。かつての恋人を白痴と評したりね。そこまでいうかぁって感じ。
だから、レビューで彼女のことを嫌いだといっている人の意見もわからないではないのです。
でも自分は、彼女のことが嫌いではありません。
なぜなら、倣岸さは誰の心にも潜むものだと思うから。そしてそれは心の弱さの裏返しだとも思います。
本当に心の強い人って決して他人を見下したりしないですよね。心の中にしっかりとした核があれば、そんなことはしない。少なくても自分はそう思います。
理帆子は、物語の序盤でひどく嫌な性格として描かれています。けれど、その彼女が自らの倣岸さが招いたトラブル、様々な人との出会い、そして大切な人との別れ、それらのことを受け入れ、乗り越え、成長していく姿はやはり感動的でした。

先日の『このミス』に関して他の記事で、国内のミステリーは本体価格が千円以下のノベルズや文庫にも力を入れないといけない!と述べましたが、自分の提言をもっとも具体的に形にしたものが『凍りのくじら』をはじめとする講談社ノベルズなのかもしれません。
こういった作品がよめるのであれば、国内のミステリーもまだまだ捨てたものじゃない、心からそう思います。
ともかく『凍りのくじら』、傑作でした。
コメント (2)
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