『そして、一粒のひかり』、シネテリエ天神にて鑑賞。
自分にとって映画は基本的に娯楽です。日々の憂さを晴らしたいから、現実の世界の重さを忘れたいから、そんな理由で映画を観ます。そのため主に観るのはいわゆる娯楽映画、アクション映画、そういった頭を使わないで済むものばかりです。メッセージ性の強い作品、政治色の強い作品、そういったものはあえて忌避する傾向にあります。そういった重いテーマの内容に触れたければ新聞を読めばよい、そう考えています。新聞を隅から隅まで読めば気が滅入ることは確実ですから。
そんな自分ですが、なぜかしら一年に一度か二度、義務感にも似たものに突き動かされて映画を観ることがあります。
『そして、一粒のひかり』はそんな映画の中の一本です。
この映画は麻薬の運び屋になることを選択した、十七歳の女の子マリアが主人公です。
運び屋といってもカバンやリュックに詰めて運ぶのではありません。ヘロインをゴムの袋に詰め、それを飲み込んで、胃の中に収めたまま飛行機でコロンビアからアメリカまで行くのです(そのゴムの袋の数、実に六十二)。そんな旅に危険がないわけもなく、税関で捕まるぐらいならいい方で、袋が破ければまず命は助かりません。
命の危険すらある選択を誰も好き好んでするはずもなく、マリア自身は思いがけない妊娠のために金が必要になったために運び屋になるという選択をするのです。
『そして、一粒のひかり』という邦題は秀逸だと思います。けれどタイトルに相違して、この映画の中に希望は一切ありません。映画の最後の最後になってもマリアの置かれている状況は絶望的です。自らは妊娠し、周りに頼るものもなく、おそらくは無一文に近いのではないかと思われます。
でも彼女の歩みは力強く、そしてその毅然とした姿はひたすら美しいのです。
正直この『そして、一粒のひかり』という映画を観て、後悔しました。観るんじゃなかったと思いました。気分が落ち込みもしました。
けれど、この映画に観る価値がないとは思いません。是非多くの人に観てもらいたい、とも思います。
そういった映画もある、ということです。
自分にとって映画は基本的に娯楽です。日々の憂さを晴らしたいから、現実の世界の重さを忘れたいから、そんな理由で映画を観ます。そのため主に観るのはいわゆる娯楽映画、アクション映画、そういった頭を使わないで済むものばかりです。メッセージ性の強い作品、政治色の強い作品、そういったものはあえて忌避する傾向にあります。そういった重いテーマの内容に触れたければ新聞を読めばよい、そう考えています。新聞を隅から隅まで読めば気が滅入ることは確実ですから。
そんな自分ですが、なぜかしら一年に一度か二度、義務感にも似たものに突き動かされて映画を観ることがあります。
『そして、一粒のひかり』はそんな映画の中の一本です。
この映画は麻薬の運び屋になることを選択した、十七歳の女の子マリアが主人公です。
運び屋といってもカバンやリュックに詰めて運ぶのではありません。ヘロインをゴムの袋に詰め、それを飲み込んで、胃の中に収めたまま飛行機でコロンビアからアメリカまで行くのです(そのゴムの袋の数、実に六十二)。そんな旅に危険がないわけもなく、税関で捕まるぐらいならいい方で、袋が破ければまず命は助かりません。
命の危険すらある選択を誰も好き好んでするはずもなく、マリア自身は思いがけない妊娠のために金が必要になったために運び屋になるという選択をするのです。
『そして、一粒のひかり』という邦題は秀逸だと思います。けれどタイトルに相違して、この映画の中に希望は一切ありません。映画の最後の最後になってもマリアの置かれている状況は絶望的です。自らは妊娠し、周りに頼るものもなく、おそらくは無一文に近いのではないかと思われます。
でも彼女の歩みは力強く、そしてその毅然とした姿はひたすら美しいのです。
正直この『そして、一粒のひかり』という映画を観て、後悔しました。観るんじゃなかったと思いました。気分が落ち込みもしました。
けれど、この映画に観る価値がないとは思いません。是非多くの人に観てもらいたい、とも思います。
そういった映画もある、ということです。