昨日の記事の続き、、、っていうか『ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ』のレビュー記事です。
サラ・コナーといえば映画『ターミネーター』(1&2)において、リンダ・ハミルトンが築いた(精神的にも肉体的にも)「強い女」というイメージがあるが、本作のレナ・へディからはそういった印象はまったく受けない。理知的で、気品があり、自らは争いに参加しないタイプに見える(つまり『300』で彼女が演じた役柄そのままのイメージ)。
別にそっくりさんでなければいけないというわけではないが、せめてイメージだけは継承して欲しかった、というのが正直なところである。
イメージが違うのはジョン・コナーも同様。『ターミネーター2』でエドワード・ファーロングが演じたジョン・コナーには、将来人類の指導者になるかもしれないと思わせるカリスマが感じられたが、本作のトーマス・デッカーにはそういったカリスマは感じ取れない。よくも悪くもいいところのおぼっちゃんといった感じにしか見えず、もちろん人類の指導者になりそうには思えない。
今挙げた二人は既出のキャラクターであるから、誰が演じたところでどうしたって違和感は覚えるだろう。つまり、イメージが違う、ミスキャストだと文句を言ったところで仕方のないことなのかもしれない。
だが、本作における最大のミスキャストは他ならぬ新キャラクターである少女型ターミネーター、キャメロンを演じたサマー・グローではないだろうか。
はっきりいって顔が菊地凛子である。菊地凛子じゃ萌えないっつーの!!
確かに無表情に突っ立っている様はアンドロイド然としているが、新たに少女型ターミネーターを登場させたのは、萌え要素を重視してのことなのではないか。
それを菊地凛子似の女優に演じさせてどうすると声を大にして言いたい。
まぁそんなことを声を大にして言ってどうするという気がしないではない。笑。
キャスト面以外にもいろいろと言いたいことがある。
例えば第一話では人間社会にごく自然に溶け込んでいたキャメロンが(ジョンは彼女の正体に気づかない。そんなので本当に抵抗軍のリーダーになれるのか?)第三話では突如如何にもロボットであるかのように振舞い出したり、第四話ではジョンが自動車の運転が出来ないことが判明したり(五年前にはバイクを乗り回していたのに!!幼少のころから人類の指導者となるべく様々なことを英才教育されていたはずなのに!!)というように、重箱の隅を突付き放題である。
また演出面で言えば、第一話のオープニングはターミネーターに襲われるサラの夢、つまり夢オチなのだが、第三話もやはりサラのターミネーターに襲われる夢で始まるのだ。夢オチにも程がある。
その他、台詞やアクション、間の取り方、構図など演出面においても作り手のセンスといったものは感じられなかった。比べるとひたすらジェームズ・キャメロンの偉大さが思い知らされるばかりだった。
以上のような理由により、映画『ターミネーター』(1&2)が超絶的な傑作であるのに対して、テレビシリーズ『ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ』は如何にも凡作という感が否めない。
何だかボロくそに貶してしまったが、ただ、それでも『ターミネーター3』を鑑賞した時のような憤りは感じられなかった。
それは本シリーズの作り手が少なくともオリジナルに対してリスペクトを捧げているのが感じられたからだ。
例え展開や設定に説得力がなく、キャストに魅力を覚えず、作り手の才能を感じられなかったとしても。
サラ・コナーといえば映画『ターミネーター』(1&2)において、リンダ・ハミルトンが築いた(精神的にも肉体的にも)「強い女」というイメージがあるが、本作のレナ・へディからはそういった印象はまったく受けない。理知的で、気品があり、自らは争いに参加しないタイプに見える(つまり『300』で彼女が演じた役柄そのままのイメージ)。
別にそっくりさんでなければいけないというわけではないが、せめてイメージだけは継承して欲しかった、というのが正直なところである。
イメージが違うのはジョン・コナーも同様。『ターミネーター2』でエドワード・ファーロングが演じたジョン・コナーには、将来人類の指導者になるかもしれないと思わせるカリスマが感じられたが、本作のトーマス・デッカーにはそういったカリスマは感じ取れない。よくも悪くもいいところのおぼっちゃんといった感じにしか見えず、もちろん人類の指導者になりそうには思えない。
今挙げた二人は既出のキャラクターであるから、誰が演じたところでどうしたって違和感は覚えるだろう。つまり、イメージが違う、ミスキャストだと文句を言ったところで仕方のないことなのかもしれない。
だが、本作における最大のミスキャストは他ならぬ新キャラクターである少女型ターミネーター、キャメロンを演じたサマー・グローではないだろうか。
はっきりいって顔が菊地凛子である。菊地凛子じゃ萌えないっつーの!!
確かに無表情に突っ立っている様はアンドロイド然としているが、新たに少女型ターミネーターを登場させたのは、萌え要素を重視してのことなのではないか。
それを菊地凛子似の女優に演じさせてどうすると声を大にして言いたい。
まぁそんなことを声を大にして言ってどうするという気がしないではない。笑。
キャスト面以外にもいろいろと言いたいことがある。
例えば第一話では人間社会にごく自然に溶け込んでいたキャメロンが(ジョンは彼女の正体に気づかない。そんなので本当に抵抗軍のリーダーになれるのか?)第三話では突如如何にもロボットであるかのように振舞い出したり、第四話ではジョンが自動車の運転が出来ないことが判明したり(五年前にはバイクを乗り回していたのに!!幼少のころから人類の指導者となるべく様々なことを英才教育されていたはずなのに!!)というように、重箱の隅を突付き放題である。
また演出面で言えば、第一話のオープニングはターミネーターに襲われるサラの夢、つまり夢オチなのだが、第三話もやはりサラのターミネーターに襲われる夢で始まるのだ。夢オチにも程がある。
その他、台詞やアクション、間の取り方、構図など演出面においても作り手のセンスといったものは感じられなかった。比べるとひたすらジェームズ・キャメロンの偉大さが思い知らされるばかりだった。
以上のような理由により、映画『ターミネーター』(1&2)が超絶的な傑作であるのに対して、テレビシリーズ『ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ』は如何にも凡作という感が否めない。
何だかボロくそに貶してしまったが、ただ、それでも『ターミネーター3』を鑑賞した時のような憤りは感じられなかった。
それは本シリーズの作り手が少なくともオリジナルに対してリスペクトを捧げているのが感じられたからだ。
例え展開や設定に説得力がなく、キャストに魅力を覚えず、作り手の才能を感じられなかったとしても。