団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

福田辞任は議院内閣制の限界か

2008-09-02 09:57:10 | Weblog
 福田総理が突然の辞任を表明した。政界もメディアも、そして国民もまさに晴天の霹靂だった。
すでにいろいろと辞任の理由は報道されているが、思い通りにならない政治に嫌気がさした、というのが本当のところか。
 安倍さんに続いての辞任で、どちらも二代目政治家として共通している。かつてある評論家が安倍さんが辞めたときに書いていたが、二代目や三代目はお坊ちゃん政治家で、いやになったら放り出す、と。それだけ粘りがないのだろう。
 政治家の粘りとはなんだろう。つまり、それは政治家を志した以上、理想の国家像、理想の政治ビジョンがあり、その実現に向けて努力することであろう。ただし二代目はいわば血筋ゆえに政治家になったわけで、自らの理想を実現するために政治家になったわけではない。その点、政治家本来の粘りがなくても当然といえる。
 この粘りこそが、政治家が持たなければならない資質ではないだろうか。政治はいわば調整だ。調整はその粘りが発揮されなければならないし、理想を実現するための粘りである。
 理想と粘りを持った政治家が、待望されているといっていいが結局、日本の政治は政党政治で与党が首相を選ぶ。国民とは違った場所で、政治家の代表が選ばれる議院内閣制である。
 つまり、安倍さんだろうが福田さんだろうが、また次の首相になるだろう麻生さんにしても、我々にとって関わりはない。自民党内の力学によって選ばれるわけだ。
 そうした首相がある日、辞めたところで多くの国民は醒めた目で見ている。これが結局、大多数の国民が政治に対して関心が薄い理由だろう。
 議院内閣制は利点もある。国民意識から一歩離れて冷静な判断が下させる点だ。その点、大統領制は国民の意向を常に意識していないと支持率が落ち相手にされなくなる。しかし、国民が選んだのもその大統領なのだ。そこに政治と国民の一体感がある。
 議院内閣制を維持するなら、やはり我々と密着している地域の選良が、フェアで利権とは無縁な清潔な人間でなければならない。その前提が崩れて久しい。もう国民の多くは政治家に多くを期待していない。だが政治は国民の生活に直結している。
 ならば、日本にも大統領制の導入を考える必要が出てきたのではないか。二大政党制に移行し大統領制にして、国家官僚の権限を抑制して地方分権を推進する。そんなイメージができるのではないか。http://www.blogmura.com/ にほんブログ村

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