夢を見ていた。
真っ白い何もない空間に、浩介がポツンと立っていて。泣きだしそうな顔をしている浩介を抱きしめてやりたくて、そちらに向かって走っていくんだけど、走っても走ってもその距離は縮まらなくて……
「浩介……っ浩介!」
必死に呼びかけるのに、浩介は気がついてくれなくて……
その切ない瞳に触れたい。声が聞きたい。
浩介、おれはお前が……っ
「!!!」
はっと目覚めると、自分の部屋のベッドの上にいた。
「あ、起きた?」
枕元で涼やかな声がする。……椿姉。
「白鳥になった夢でも見たの? ずっと『こう、こう』って言ってたわよ」
「は?」
白鳥って、こうって鳴くのか?
姉は、キョトンとしたおれの頬を囲い瞳をのぞきこんだあと、脈をとって「ふむ」とうなずいた。
「大丈夫そうね。寝不足が続いてたのに激しい運動したりするから」
脳貧血ね。と姉が言う。8歳年上の姉は看護婦をしている。プロがそういうならそうなんだろう。
「浩介君がここまで運んでくれたのよ」
「………」
浩介、という言葉にドキリとする。心臓に悪い……。
「あの子、どこかであったことがあるような気がするんだけど……」
姉が首をかしげた。どこかでって……
「ああ、中学の時、試合見にきたことあるらしいからそれでかな……」
「あら、そうなの」
おれの公式戦最後になってしまった試合だ。姉も見に来ていた。その時のおれの姿に影響されてバスケをはじめたという浩介。
一生懸命練習している姿を羨ましいと思った。泣いている奴を抱きしめたいと思った。こいつのことをもっと知りたいと思った。
(浩介、おれはお前が……)
その続きはなんなのだろう?
お前が……他の奴と仲良くなるのが嫌だ。おれが一番になりたい。お前とずっと一緒にいたい。
「椿姉……」
「なあに?」
優しい椿姉。昔から少しも変わらない。こういうふんわりした雰囲気、浩介に似てる。
「椿姉はさ……誰かとずっと一緒にいたいと思ったことある?」
子供のころのように、素直な気持ちで姉に問いかける。
「その人が他の人と話したりするのが嫌だなって思ったことある?」
「もちろんあるわよ?」
椿姉は優しく微笑んで、子供のころのように、おれの頭をくしゃくしゃとなでてくれた。
そして、ニッコリと、断言した。
「慶はその子のことが好きなのね」
「……好き?」
好き……
「それは、恋、よ」
…………………。
…………………。
「…………………は?」
恋?
その言葉が脳に入ってくるまでに長い時間がかかってしまった。
言葉が脳に達した瞬間に、勢いよく手をふる。
「いやいやいやいやいや………」
それは違う。違うというかありえない。だって、あいつは………
「違う違う違う。絶対違う。そんなことありえない」
「慶?」
ふわりとした笑顔で、姉がいう。
「自分に素直になりなさい」
そして、おれの心臓のあたりを手の平で押してきた。
「自分の心に正直に。あなたの思った通りにしなさい」
「思った通りって……」
それは……なんだ?
「後悔しないように。今のこの瞬間は一度しかないのよ?」
「…………」
一度しかない瞬間………
「今度どんな女の子か教えてね?」
思いに沈んだおれに笑いかけてから、姉は部屋を出て行った。
…………。いまさら男だなんて言えない……。
「恋………?」
こないだ、ヤスはなんて言ってたっけ……
『一緒にいると嬉しい』
『一緒にいたい』
『相手のことが知りたい』
それが『好き』ということなら、おれの浩介に対する感情は、『好き』以外のなにものでもないじゃないか。
「好き……」
さっきの浩介の腕のぬくもりを思いだし、胸が苦しくなる。
両腕で自分をかき抱く。そうしていなければ全身の震えが止まらなかった。
「なんだよ、それ……」
思えば………初めに会った時からそうだった。
あいつの切なさをまとった空気、一生懸命さ、そして心からの笑顔………すべてがおれの中に入りこんできた。
体中が熱をもったように熱くなる。全身が一つのものを求めている。
「浩介……」
浩介、お前に会いたい。今、すぐに。
「浩介」
お前の笑顔がみたい。お前の声が聞きたい。
「浩介……」
お前に触れたい。浩介……浩介……浩介!
「!」
その瞬間、ガチャリ、とドアが開き……、
「こっ浩介!!」
思わず叫んでしまった。当の浩介が……普通に部屋に入ってきたのだ。
「なんで……っ」
「……わあ」
浩介は勉強机の椅子をベッドの縁まで転がしながらもってきて座ると、
「嬉しいなあ」
と、にっこりと笑った。
う、嬉しい??
「な、なにが……?」
動揺して尋ねると、浩介は引き続き心底嬉しそうな顔をして言った。
「だって、渋谷、初めておれのこと呼んでくれた」
「え? あ……」
そう。心の中では、浩介、浩介と言っていたくせに……
「いつも『おい』とか『お前』とかだったもんね。おれ、渋谷はおれの名前知らないのかと思ってたよ」
「ああ……」
なんか照れくさくて呼べなかったんだよ。なんてもっと恥ずかしいから言わなかった。おれが浩介を直視できないでいると、
「まだ具合悪い?大丈夫?」
顔をのぞきこまれ、火がついたみたいに体が燃え上がる。やめろ。そんな近くでみるな。
「いや……大丈夫……」
かろうじてそれだけいうと、浩介はホッとしたように息をつき、
「良かった」
「!」
笑った。
(好き)
この笑顔が好き。そう、おれはこいつが……
「あのさ、渋谷」
「…………っ」
ふいに真面目な顔になった浩介に、はっと甘ったるい気持ちから我に返る。浩介、自転車を下りたときと同じ顔をしている。あの時の会話を思いだして背筋が凍る。
こいつ……何を言い出すつもりだ。やっぱり、もう、バスケの練習は必要ないって……?
顔をこわばらせながら浩介を見かえす。
「……なんだ?」
「あの……おれさ、渋谷には迷惑ばっかりかけちゃったけどさ……」
「………」
続く別れの言葉に備えて身を固くする。
が、浩介はにっこりと笑った。
「これからも、よろしくね」
「え?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
え? よろしくって、それじゃあ……。
「おれにはやっぱり渋谷が必要なんだよ」
「………え」
「ほら、この一か月、渋谷も文化祭実行委員忙しくて、おれもバスケ部忙しくて、練習見てもらえなかったでしょ? やっぱり自主練じゃいいんだか悪いんだか分からなくて」
「…………武史にみてもらってたんじゃないのかよ」
言いながら、歪んでくる顔を見られたくなくて下を向く。
「さっき、『上岡には色々教えてもらってる』っていってただろ」
「え? あ、ううん。相手校のこととか試合前の流れとかベンチの座り順とかそういうの教えてもらってるけど、実技は全然」
「は?」
色々って……それかよっ!
「それとね、テスト勉強もさ、渋谷は期間中も実行委員で集まったりしてたから一緒にできなくて残念だった」
「…………」
おれが忙しかったから、うちに来るの遠慮してたってことか……
頭の中がグルグル回っているおれの様子に気づいているのかいないのか、浩介はずっと笑顔だ。
「だからね、文化祭終わったら今ままでみたいに、一緒に練習したり勉強したりしてほしいんだけど……」
「…………」
「ダメ?」
小首をかしげた浩介を見ていたら、どっと体の力が抜けてしまった。ペタンと前屈するみたいに布団に顔を埋める。
なんだ……なんだよ。おれのこの悩んだ時間を返せ。お前に必要とされてないと思って散々落ち込んでたのに……
「……渋谷?」
ちゃんと必要としてくれてるじゃないか。
おれ、こいつに必要とされてる……
「……いいぞ」
ボソッと答えると、「ああよかった」と浩介がニコニコといった。
こいつはおれを必要としてくれている。それだけで十分だ。こうして手を伸ばせばつかまえることのできる距離にいられるのなら……
「……それとさ、渋谷」
「なんだ?」
浩介はいいにくそうにもじもじとしている。
「もう一つお願いがあるんだけど……」
「なんだよ?」
もうこの際なんでも聞いてやる。
「あの……」
「おお」
「あの……」
逡巡の末、浩介は意を決したように言った。
「おれも、渋谷のこと名前で呼んでもいい?」
「え……?」
名前って……
「前から渋谷のこと、名前で呼びたかったんだけど」
「………あ」
名前……。そうか。おれが「桜井」じゃなくて「浩介」って言ったからか。
そうしたら、「渋谷」じゃなくて……
「………いいぞ」
「あ、ホントに?」
浩介は嬉しそうにうなずき、大きく深呼吸した。
おれはそんな浩介から目が離せないでいた。黒い瞳。日に焼けた浅黒い肌。やわらかい髪。一つ一つ確かめる。ああ、浩介はここにいる……。
「じゃあ、呼ぶね」
浩介は恥ずかしそうに、コホンっと咳払いをすると、優しく……ささやくようにいった。
「……慶」
「!」
心の奥に鋭い痛みが走る。それにたえられなくておれは静かに瞳を閉じた。息をゆっくりすいこむと、浩介のにおいがした。
「……浩介」
「はい」
にっこりとする浩介。
ああ……おれは、お前のことが、好きだ。
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お読みくださりありがとうございました!
ちなみにこちら1990年のお話なので、慶は「看護師」ではなく「看護婦」と言っています。
結構そういうこと気にしながら書いているのですが、もし「1990年にそういう言葉はなかった」とかありましたら、教えていただけると有り難いです。よろしくお願いします。
1990年にはなかったから使えないけど使いたい言葉……イケメン。テンション。天然。まったり。
「超」は微妙なんですよね。1995年1月に書いた自分の小説に出てくるので、94年には出回ってた言葉のようですが、90年はどうだろう。まだじゃないかな……。
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