渋谷がおれのことを「浩介」と呼んでくれた。
これまでおれを「浩介」と呼ぶのは両親しかいなかった。だから「浩介」という言葉は、おれにとっては鎖のようなもので、呼ばれるたびにギリギリと体を締め付けてきて、痛くて苦しくて逃げ出したくなるものだった。
でも、渋谷の呼んでくれる「浩介」は、凛としていて爽やかで、それでいて包み込んでくれるみたいな温かさがあって……。大嫌いだった自分の名前が、全然別の、愛しいものに思えてくるから不思議だ。
「………慶」
そしておれも、渋谷のことを名前で呼んでもいい、と言ってもらえた。
だから、呼ぼうと思うんだけど、恥ずかしくてなかなか言えなくて……。この一週間、家でも、登下校時一人で自転車を走らせているときも「慶、慶」と口に出して練習しているのに、いざ本人を目の前にすると……。
だから今日こそは絶対に言う!と心に誓った木曜日。
「こーすけー、終わったかー?」
渋谷が普通に「浩介」って言いながら教室の中に入ってきた。
渋谷は出会ってから半年近くも「おい」とか「お前」とかしか言わなかったくせに、一回「浩介」と呼んでくれて以来は、今までもずっとそう呼んできたかのような自然さで「浩介」と呼んでくれている。
「ごめん、もうちょっと待って」
日直の仕事はあと日誌を書くだけで終わる。渋谷はおれの隣の席に座り、片手で頬杖をつきながらおれの手元をのぞきこんできた。
「見られると書きにくいんだけど……」
「まあ、気にするな」
「気にするなって」
笑ってしまう。渋谷は本当に面白い。渋谷と一緒にいると笑ってばかりいる。
「なあ、そういえばさ、お前、賭けに勝ったらおれに何言うつもりだったんだ?」
「あ……うん」
先週、1ON1で、負けた方が勝った方のいうことを聞く、という賭けをした。途中で渋谷が倒れてしまい、勝負はついていないんだけど……
「まあ……いいじゃん」
「なんだよ、教えろよ?」
「えー……」
完璧な二重の瞳に見つめられ、その瞳があまりにも美しくて、自分の願おうとしたことが、恐れ多すぎる気がして黙ってしまう。
負けた方が勝った方のいうことを聞く。そう言い出したのはおれだ。それは願いがあったから。
(おれが勝ったら……『親友』になって、なんて……)
そんなこと言ったら、呆れられちゃうよね……。
「教えろよー」
そんなおれの心なんて知らない渋谷が、ぺちぺちと腕を叩いてくる。
「それを言うなら、渋………」
違う。渋谷、じゃない。今日こそは、言うんだ。覚悟をきめて息を吸い込み、一気に吐き出す。
「慶、は、何言うつもりだったの?!」
「おれ?」
きょとん、と渋谷が聞き返してくる。「慶」といったことにはまったく触れず、まるで今までもそう呼ばれてきたみたいに。
おれも一回「慶」と言ったら、その感触が心地よくて何度でも言いたくなってきた。
「そう。慶、は?」
「あー決める前に倒れたから決めてない」
「えーじゃあ、何にする?」
「その前に、お前、教えろよ」
「ちょ……っとっもうっ慶!」
腕を掴んで揺すぶられて字が書けない!
「やめてよっ。書き終わらないでしょっ」
「教えてくれたらやめる」
「もー慶、慶ってばっ」
怒りながらも笑ってしまいながら、その手を剥がそうとしていたところ、
「えーーーー、ビックリ」
「え」
いきなり、前から女の子の声が。女子バスケ部の荻野さんだ。荻野さんは渋谷の中学時代の同級生でもある。渋谷がおれから手を離し、眉を寄せた。
「なにがビックリ?」
「桜井君が渋谷君のことを『慶』っていってることにビックリ!!」
「え………」
荻野さんが腕組みをして肯きながら言う。
「だって、渋谷君、名前で呼ばれることすっごく嫌がるって有名だったじゃん」
「え………」
嫌がる……?
「中一の時に、名前で呼んできたクラスメイトを殴って、相手の歯折った、とか」
「えええ!!」
歯折った!?
「ほ、ほんとに!?」
「……………」
聞くと、渋谷は眉間にシワをよせて、
「それ、2つの話が一緒になってるな」
「え……」
「歯を折ったのは小1の時だ。突き飛ばした先の机にぶつかって、ちょうどグラグラしてた乳歯が取れたんだよ」
「あ、そうなの?」
荻野さんが目をまん丸くした。
「2つの話って、もう一つは?」
「中一の時に、普通に殴っただけ。でも歯は折れてない。顔狙ってねえし」
「……………」
普通に殴るって……
「鉄拳制裁。あっちが悪いんだよ。人のこと馬鹿にするから」
思いだしたように、渋谷がプウッと頬を膨らませた。かわいい。女の子みたい。
(………あ、そういうことか)
その顔を見て納得した。
渋谷はおそらくこの顔だし、小柄だし、女の子みたいだと馬鹿にされたのだろう。その上名前が「ケイ」だ。「ケイちゃん」とか言われたのかもしれない。
(そこで鉄拳制裁をくわえて、名前で呼ばせないようにするっていうのが渋谷のすごいところだよな……)
おれだったら、きっと、何も言えず、馬鹿にされたままだっただろう……
(あれ、でも……)
それなのに、おれ、「慶」って呼んでいいのか? っていうか、本当は嫌なんじゃないか?!
血の気が引いてきた。
荻野さんが、なるほどなるほど、と肯いて、
「そっかあ。そうだったんだ。でも、今でもみんな、渋谷君のこと名前で呼んだら殴られるって思ってるよ」
「そりゃちょうどいい。やっぱり名前で呼ばれるの違和感あるから」
えええ。やっぱり違和感あるんだ?! じゃ、じゃ、おれは……
「え、そうなんだ」
荻野さんの視線がふいっとおれに向いた。
「でも、桜井君は名前で呼んでもオッケーなの?」
「あ……」
渋谷、おれが頼んだから嫌々いいよっていったってこと?
クラクラして、頭を両手で押さえたところで、
「ああ、こいつはいいんだよ」
渋谷がアッサリと言った。
「こいつは特別だから」
「………え」
え……?
「こいつだけはいいんだよ」
何でもないことのように渋谷は言うと、日誌をのぞきこんできた。
「まだ書きおわんねえの? おれ適当に書いてやろうか?」
「あ、ううん。大丈夫。書く書く」
あわてて日誌に向かう。向かいながらも胸がドキドキして手が震えてくる。
(特別……特別だって)
信じられない信じられない! どうしよう……
「ふーん、じゃあ、引き続き、名前で呼んだら歯折れるまで殴られるって噂流しておいてあげるね」
「だから歯折れるまで殴ってねえっつーの。あ、ちなみに歯折ったっての白石だから」
「え、白石君?! 卓球部の?!」
同じ中学である渋谷と荻野さんが思い出話に花を咲かせている。楽しそう……
(でも)
おれは特別だって。特別、特別……
ふいっと視線を上げると、渋谷と目が合った。渋谷がニッと笑ってくれたのが、嬉しくて嬉しくてしょうがない。
***
木曜日はバスケ部の定休日。
今までは体育館で自主練をしていたけれど、体育館が使えなくなってしまったため、今日から渋谷のうちの前の公園で練習することにした。
「1ON1で賭け、またやるか?」
「えー、勝負にならないからもういいよ」
バスケットゴールには先着がいたので、空くまで公園の端っこでパス練習をしながら話をする。
「ねえ……渋谷」
いいとは言われながらも、やっぱり躊躇してしまい名字で呼ぶと、
「名前でいい」
バシッと手がジンジンするくらいの勢いでボールを投げられた。
「でも……」
ゆるく返すと、渋谷はムッとしたようにまた強めに投げてきて、
「名前、が、いい」
「え……」
怒ったように言う渋谷……。
(こいつは特別……)
(名前、が、いい)
そんなこと言われたら、期待しちゃうよ……
「慶!」
おれも思いきり強く投げ返す。
「やっぱり1ON1やって」
「おお、いいぞ?」
ボールを受け取った渋谷がそのままおれのところに歩いてくる。
「それで……おれが勝ったら……」
渋谷を真正面から見つめる。そして、渋谷の澄んだ瞳に勇気をもらって、一気にいい放った。
「おれが勝ったら、おれの『親友』になってください!」
「……………え」
言った……言ってしまった……
渋谷、目を見開いて固まってる……
数秒の間のあと……
「はああ?」
息を吹きかえした渋谷に、心底呆れたように、はああ?と言われてしまった……
ああ、やっぱり呆れられた。
そうだよな、おれと親友なんて……
ずーんと落ち込んだところで、
「ばかじゃねーの」
「え」
いきなり軽く蹴られた。
そして渋谷は、肩をすくめていってくれた。
「おれ達、とっくに『親友』だろ?」
「…………え」
とっくに……親友?
「おれはそのつもりだったけど? お前違ったのか?」
「え……あ……」
うそ……ホントに……?
放心状態のおれの目の前に、渋谷の完璧に整えられた顔がある。本当に綺麗な顔……。
その綺麗な顔で、渋谷はイタズラそうに笑うと、
「だから賭けは他のことにしろよ。ま、おれが勝つから考えるだけ無駄だけどな」
「…………」
キラキラしてるオーラ。このオーラにおれは救われた。渋谷はおれを暗闇から救い出してくれた。
「……慶」
「なんだ」
笑ってる……笑ってる。渋谷。
「ありがと」
「何が」
「何もかもが」
「なんだそりゃ」
肩をすくめながら「ほら、やるぞ」とゴールの方へ向かう渋谷。ちょうどゴールが空いたのだ。
その後ろ姿を見つめながら、心の中でつぶやく。
おれの初めての友達、おれの親友。世界一強い人。あなたと一緒にいれば、おれも少しは変われるかな……
「慶」
「ん?」
振り向いた眩しい光に目を細める。
「………10回勝負ね」
「20回でもいいぞ? じゃ、いくぞっ」
「うん」
この光とずっとずっと一緒にいたい。
ずっとずっと一緒にいさせて?
ねえ、慶?
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お読みくださりありがとうございました!
最終回チックなのは、浩介視点の最終回だからなのでした。
次回の慶視点で「遭逢」編は終了です。
次は高校二年生一学期の「片恋」編。
浩介が女子バスケ部の美幸さんに片思いする話、です。
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