きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

得体の知れない「普通」

2014-05-28 21:51:00 | 徒然に2014-2015
最近「納期」の関係で、通常業務と平行して、オージオグラム(こんなん変換せんのやなあ)を何枚も何枚もひたすら書いている。自分の覚え書きならまだそうでもないが、あまり知識のない人にも見てもらうものなので(儂のレベルで云えば)丁寧に書いている。単純な作業だが時間はかかる。
今回はたまたま「正常」と云われる人のも書いた。いつも厳しい聴力のばっかり書いていたので変な感じだった。

耳が聞こえないとか聞こえにくい者に対して、周りの者が関係ないよ大丈夫と言うのはたやすい。でも、本当に大丈夫なのかというと全然そうではない。
「ミウチ」と「ミソト」ということばがある。社会学・民俗学の用語か。
障害というものを、それを自分が持っていないと認識している人々は妙なもので、それが自分から離れているところにあると暖かい目で見ることができる。自分に近づいてくると関わりを絶とうととする。ぴたっとくっつくとあからさまに関係ないという態度をとるか、障害というものに対して嫌悪感をむき出しにする。
いざ一緒になって聞こえないから無理、となることは多々ある。聞こえないからできませんね止めましょうと言われることも多々ある。聞くこととは全然関係のないことでも、である。聞こえないから無理だということが普通だと思っていないか。聞こえることは普通ではなくて、たまたま多数派であるというだけではないのか。普通であることと多数であることは同じことだろうか。
ミウチになると「普通」で括れない異物は排除したくなるというのは、人間社会だろうか。日本の社会だろうか。
儂にとって見慣れない位置に折れ線が横たわるオージオグラムは、聞こえている人のものである。でも儂にとってそのオージオグラムはものすごく違和感がある。だから聞こえている人のものである、というだけで「普通」とは違うと思う。それだけはここ数年で分かってきたことである。

儂、「重度」でも「正常」でもどちらでもない。20年ほど前「マージナルマン(境界人)」だと言われて納得したことがある。便利な考え方だ。何か人が見えないものを見ることができるポジションにいるような気がして。

「普通」であるといわれていることに対してちょっとまてそれは本当かとおかしいのではないかといえるようでありたい。恐らく対峙する得体の知れない「普通」は結構な化け物のはずである。