正月に所用のため出かけたついでに、もう廃校になった母校(小・中学校)がある所まで脚を伸ばしてみました。
昭和の合併で二つの自治体に分かれた後も、学校組合という組織が作られて分割されないまま運営されて来たのですが、とうとう廃校になってかなりの年数が経ちました。
段差があって進入できない校門も門柱だけが残っていました。
校庭は近傍のお年寄りのグラウンドゴルフ場として活用されているらしく、手入れはされていました。
以前は校庭から一段高いところに校舎がたっていて、階段も三カ所あったのですが車での進入のために専用のとりつけ道路の坂道があり、それがそのまま残っていたのは嬉しかったですね。
小さなトラックに乗って通勤する男性の先生がいつもこの坂を登れずに「お~い、押してくれ~!」と叫ぶと毎日数名の男子生徒で群がって後押しをしたことが懐かしく思い出されます。
その先生も昨年お亡くなりになりました。
かつての校舎のあった場所の一部に小さな記念館のような建物があり、休日で閉館していましたが玄関から中を覗くと、当地出身の不知火光右衛門(横綱土俵入りの不知火型)の銅像が建っていました。
少し離れた場所に位置する小学校の跡は、廃校のあと縫製工場として使われたこともあって、比較的原型を留めてはいましたが門柱には「売地」の看板が立っており、中学校と違って活用の予定はないような雰囲気でした。
私も今はまったく違った土地に住み生活をしていて、かつての学校の活用について意見を言う立場にもありませんが、子供達の声が聞こえないというのは寂しいものですね。
日本の人口が今よりもずっと少ないあの頃、沢山の子供達が此所に集いその声がこの辺り一帯に響いていたのです。
若かったのですね。あの頃の日本は・・・・。
街も田舎も・・・・・。