長崎港の入口には大型のクルーズ船も通行可能な大きな橋がある。
軍艦島へ向かう小さなクルーズ船は、次に伊王島へ渡る橋の下をくぐって航行する。
前日、船で下をくぐった大橋を当日は車で島に渡った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/6c/720a6b8d2f88bcc89a3a9fbb2708a506.jpg)
ウイークデーでもあったし、車の通りも少なくしかも曇りがちだったので快適なドライブになった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/63/331f872e19fe8ddfc429c3c991ad0e32.jpg)
橋を渡りきる辺りには、教会も見える小さな港があって、橋が架けられる前は船で島に渡っていたのだ。
この橋から海水浴場やリゾートホテルのある地域までは比較的走りやすい道路なのだが、それ以外の島内の道路は極めて狭い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/af/137bbca1b5436a530d9f05d350a7a4b2.jpg)
(海水浴場)
とても綺麗で整備された海水浴場だが、オフシーズンは静かなもの。
この海水浴場から左手に登る小さな道を走って灯台の方へ向かう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/d8/30a54bcef46dedad5949beb8bdedba98.jpg)
(伊王島六角灯台)
開国後の日本で、最初に設置された灯台の一つである。
六角形の石の台座の上に作られていたものは、今では台座だけが残っていて、現在の灯台は形はそのままに再建されたもの。
近くには砲台の跡も残っている。
この後、伊王島を訪れた主たる目的の「俊寛の墓」を探して島内をぐるぐる回ることになってしまった。
標識は立っているのだが、自転車か歩行者用で車では見逃しそうになる。
やっと見つけても進入路を誤るとまったく違う方向に走ってしまうし、道路補修などで迂回をさせられると、もう方向感覚さえ麻痺してしまう。
通常だと左に海、右に山などと目標にするのだが、島の頂上付近で海が常に見えている状態から迷うのだ。
それでも離合の車がいないことを祈りつつ、狭い路地に車を進ませ、やっと公園らしき場所に辿り着いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/90/3196bde98f58796a076a711d273460c9.jpg)
(俊寛僧都の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/30/fb51db4e07519936029bf1f4ad04852c.jpg)
(北原白秋の歌碑)
趣味で習っている「謡曲」の「俊寛」の説明には、平家打倒を企てた他の2名と共に鹿児島の喜界ヶ島に流されて云々とあった。
ネットで調べると鹿児島の離島にも墓があって祀られている。
ただ、長崎県の伊王島にも俊寛の墓が存在し、その他にも2~3箇所あると記述されていた。
「能」や「歌舞伎」などでは喜界ヶ島という設定にしているので、いつのまにか鹿児島に墓も出来たのかも知れない。
後から作られた物語に合わせて、事実がはっきりしなくなってしまうことは日本の歴史にはしばしばある。
北原白秋も俊寛の墓が伊王島にあると聞いて、わざわざ島を訪れ墓に詣でている。
その後戦前に発表した詩集の中に、長歌一首と反歌を詠んでいる。
歌碑は、俊寛の墓の直ぐ横に建立されている。
「いにしえの流され人もかくありてすえいきどおり海をにらみき」
許された2名を見送り、俊寛は失意のままに島で果てるのだが、何処も政治犯には厳しいようだ。
かくて、俊寛には悪いが墓詣でのあと、自由に出入り可能な立派な橋をわたって帰路についた。
勿論その翌日、謡曲の練習の休み時間に、仲間に写真付きの自慢話をしたことは言うまでもない。
![](//oyaji.blogmura.com/oyaji_ganbaru/img/oyaji_ganbaru88_31.gif)
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前日、船で下をくぐった大橋を当日は車で島に渡った。
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橋を渡りきる辺りには、教会も見える小さな港があって、橋が架けられる前は船で島に渡っていたのだ。
この橋から海水浴場やリゾートホテルのある地域までは比較的走りやすい道路なのだが、それ以外の島内の道路は極めて狭い。
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(海水浴場)
とても綺麗で整備された海水浴場だが、オフシーズンは静かなもの。
この海水浴場から左手に登る小さな道を走って灯台の方へ向かう。
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(伊王島六角灯台)
開国後の日本で、最初に設置された灯台の一つである。
六角形の石の台座の上に作られていたものは、今では台座だけが残っていて、現在の灯台は形はそのままに再建されたもの。
近くには砲台の跡も残っている。
この後、伊王島を訪れた主たる目的の「俊寛の墓」を探して島内をぐるぐる回ることになってしまった。
標識は立っているのだが、自転車か歩行者用で車では見逃しそうになる。
やっと見つけても進入路を誤るとまったく違う方向に走ってしまうし、道路補修などで迂回をさせられると、もう方向感覚さえ麻痺してしまう。
通常だと左に海、右に山などと目標にするのだが、島の頂上付近で海が常に見えている状態から迷うのだ。
それでも離合の車がいないことを祈りつつ、狭い路地に車を進ませ、やっと公園らしき場所に辿り着いた。
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(俊寛僧都の墓)
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(北原白秋の歌碑)
趣味で習っている「謡曲」の「俊寛」の説明には、平家打倒を企てた他の2名と共に鹿児島の喜界ヶ島に流されて云々とあった。
ネットで調べると鹿児島の離島にも墓があって祀られている。
ただ、長崎県の伊王島にも俊寛の墓が存在し、その他にも2~3箇所あると記述されていた。
「能」や「歌舞伎」などでは喜界ヶ島という設定にしているので、いつのまにか鹿児島に墓も出来たのかも知れない。
後から作られた物語に合わせて、事実がはっきりしなくなってしまうことは日本の歴史にはしばしばある。
北原白秋も俊寛の墓が伊王島にあると聞いて、わざわざ島を訪れ墓に詣でている。
その後戦前に発表した詩集の中に、長歌一首と反歌を詠んでいる。
歌碑は、俊寛の墓の直ぐ横に建立されている。
「いにしえの流され人もかくありてすえいきどおり海をにらみき」
許された2名を見送り、俊寛は失意のままに島で果てるのだが、何処も政治犯には厳しいようだ。
かくて、俊寛には悪いが墓詣でのあと、自由に出入り可能な立派な橋をわたって帰路についた。
勿論その翌日、謡曲の練習の休み時間に、仲間に写真付きの自慢話をしたことは言うまでもない。
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