ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(32)

2020-11-09 18:13:29 | 小説
当然、彼女にも浮気された悔しさはある。しかし、心のどこかにまだ余裕があった。若い女性と浮気したというなら、短絡的な怒りも大きかったはずだ。しかし、あくまで彩乃の見た印象とはいえ、50歳前後の中年女性。佐世子にも負けるはずがないというプライドがあった。だからこそ戸惑う。戸惑いながら離婚を真剣に考えてみる。しかし、あまりに急な話で決断はできそうにない。離婚する、しない。どちらを選んでも間違っているような気がするのだ。
そして佐世子は人を頼った。町田朋子に経緯を話し、相談した。町田の意見は「まず佐世子さん自身がどう考えているのか整理し、そして3人の子供にも意見を聞いたほうがいい。互いの意見をぶつけ合って出した結論ならどういう形であれ、これからの人生を前向きに考えられるのではないか」というものだった。

もう1人、旧友の牧野和枝にも相談した。和枝は2人の子育てをほぼ終え、最近は夫と2人で年に1度は泊りがけの旅行に出かけているらしい。外から見れば、おしどり夫婦の部類だろう。孝が家から出て行ったことは伝えてあった。
「随分、急な話だね。離婚だなんて」
和枝は沈んだ口調ながらも、どこか遠い国の話を聞いている様子だった。佐世子は皮肉にも和枝夫婦の仲睦まじさを垣間見た気がした。
「彩乃ちゃんは高校3年だっけ」
和枝が唐突に尋ねてきた。
「うん、あと4、5か月で大学受験」
「大きくなったね」
この時ばかりは和枝も感慨深げだった。
「確かに夫がいなくなってから、彩乃も少し大人になったような気がする」
「長い反抗期も終わりだね」
「それは私にも半分、いやそれ以上、原因があることだから。今回、夫をここまで追い詰めたのも」
佐世子の偽らざる本音だった。
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若い罪(31)

2020-11-09 15:07:59 | 小説
「実は50を過ぎた辺りから、役所を辞めようと思ってたんだ。50代半ばで。それで50代後半から何するんだって。いろいろ想像してみたけど、これまで30年、公務員一筋でやってきて、多趣味でもない自分に何ができるか?なかなか思いつかなかった」
「そんなに商売は甘いもんじゃない。孝さんには定年まで公務員を勤め上げるのが似合ってるよ。うん、それが似合ってる」
恵理は缶ビールと小鉢に盛った枝豆を孝の前に置いた。
「そうだね。うん、その通りだ。ただ離婚は成立させる」
孝はビールを二口、三口飲むと、枝豆に手を伸ばした。

「いくら孝さんが決断しても、こればっかしは相手があることだからねえ。さて上手くいきますか?」
「うん、納得してくれると思うよ。これまでの財産はすべて向こうのものになるし、末娘が大学へ入学したら、当然、入学金も授業料も払うわけだし」
孝はそうは言いながらも、自分の意志だけを一方的に伝えて、すぐさま元の自宅を後にした行動に一抹の不安を覚えていた。そんな彼の希望的観測や正当化は聞き飽きたとばかりに、恵理は「さあ、今日も仕事だ」と席を立った。

9月下旬、川奈家に4人の家族がテーブルを囲んで座っている。佐世子と麻美、正志、彩乃の3人の子供たちである。孝が久しぶりに自宅に戻り、離婚届を持参してから1週間以上が経過している。
佐世子は孝が置いていった紙を眺めながら2、3日は一人で考えた。しかし、それまで離婚は現実の問題として受け止めていなかった彼女にとっては、意表を突かれた思いだった。孝が家を出ていき、浮気をしていることが分かった後でさえ、子供たちが独立した後は孝と二人で暮らしていきたいというのが、佐世子の本音だった。
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若い罪(30)

2020-11-09 14:16:28 | 小説
日曜の午後2時前、孝は久しぶりに自宅に戻ってきた。佐世子は「おかえりなさい」と努めて自然体で出迎えたつもりだったが、孝は「お邪魔します」と硬い表情を崩さない。そして「そんなに長くはかからないと思うから」と付け加えた。佐世子が急須から緑茶を注いでいると、孝はカバンの中から一枚の紙を取り出した。
「これはよくよく考えて決めたことだから」

離婚届に孝の名前と印鑑が目に入った。意表を突かれた気分だった。確かにこないだの電話から、今リビングに座るまでの言動には決意のようなものが滲み出ていた。それでも佐世子は孝が浮気を打ち明けにでも来たのだろうと予測していた。離婚を決意しているなどとは全く想像していなかった。佐世子はしばらく沈黙するほかなかった。
「決めるのはゆっくりでいいから。俺は駄目な夫だった。失礼します」
孝は立ち上がり、早々に玄関へ向かった。佐世子はリビングに座ったまま、力なく離婚届を眺めていた。すぐに判を押すつもりはない。しかし、以前のような生活に戻れないことだけは、佐世子にもはっきり分かった。もっと触れ合いを大切にすれば何かが変わるかもしれないという考えが彼女には芽生えていたが、孝にとっては完全に手遅れだった。

孝が帰宅すると、恵理は食事中だった。日は傾き始めているが、彼女にとっては朝食に当たるのかもしれない。この日も夕方からは居酒屋のカウンターに立つ。
「離婚届、出してきたよ。女房に渡してきたよ」
孝は硬い表情だったが、どこか誇らしげだった。
「それ本当なの?」
恵理は目を丸くした。
「勿論、どう考えても離婚しかありえない」
すでに結論を出している自分自身に、さらに言い聞かせている口調だった。
「孝さんて意外とせっかちなところあるよね」
恵理は苦笑した。
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若い罪(29)

2020-11-09 11:42:52 | 小説
自宅までの帰り道、佐世子は久しぶりに幸福感が自らを支配した。町田の照れたような笑顔を思い出す。久しぶりに人の役に立てた。そして彼女に肩を触れられた心地よさ。やはり、そうしたスキンシップは生きていく上で大切な役割を果たすのだと、改めて思い知らされた。3人の子供たちの頭をもっと撫でてやればよかった。「お母さん、もういいよ」と言われるまで。
そして夫の孝にも、もっと誠意をもって接するべきだったと今更ながら思う。優しくはなく、かと言って厳しくもなく、ただただ同居人としてありきたりに扱ってきた。実は一番それがいけないのかもしれない。子供たちも含めて、孝が自分には皆、無関心と捉えても仕方なかった。しかし、佐世子も佐世子で余裕がなかった。去年から娘の彩乃が佐世子に対してほとんど口を利かなくなった。
ただでさえ、自分は必要とされているのかという疑念を抱いていた佐世子には、唯一、頼ってくれると思っていた彩乃にまで離れられたショックで、孝にまで目が届かなかった。またネガティブに考えていることに気づいた佐世子は、町田との数秒間を思い出し、家路についた。

佐世子が暗闇の家に明かりをともすと、電話が鳴った。
「もしもし、川奈孝です。勝手なことをして済まなかった」
その場が何処であろうと頭を下げている孝の姿が浮かぶ。
「元気だったんですか。一応、勤務先には連絡を取ったけど、声を聞いて安心しました」
「済まなかったね。本当に」
「そんなに謝らないで。責任はこっちにもあると思ってるから」
「いや俺が一方的に悪い。どう見たって。ところで、そっちの家に一度戻っていいかな。話があるんで。出来れば子供たちがいないほうがいいんだけど」
「わかりました。日時が分かったら連絡するね」
「ありがとう。本当に済まない」

電話は切れた。やはりこちらが温かい心でいれば、流れが変わってくるのかも知れないと佐世子は思った。
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若い罪(28)

2020-11-09 11:35:27 | 小説
「もし帰ってきたら、それを許すか許さないかは、佐世子さんはじめご家族が決めることです」
「そうですね。主人が長い間、私たち家族のために働いてきたのは間違いありません。ただ、私や子供たちにも感情があるので」
町田は静かに頷いた。
「今日のところはこれで終わりです」
「あの、料金はいくらになりますか?」
時間外なのだから、普段より多く料金はかかるだろうと佐世子は思っていた。
「いや、いりません。正式な診察ではないですから。その代わり」
「その代わり」
佐世子は少し身構えた。
「5秒。5秒だけ肩を貸してくれませんか?」
「はい、いいですけど」

佐世子は不安な顔を浮かべながら、診察室の椅子から立ち上がった。町田も立ち上がり正対した。そして少しずつ佐世子に近づき、愛しい人に触れるように優しく肩から背中を撫でた。佐世子には5秒10秒というより一瞬に思えた。町田はゆっくり手を離した。
「ありがとうございます」
町田は丁寧に頭を下げた。
「いえ、とんでもないです。でもどうしてですか?」
「7つ上の姉がいたんですが、23歳で亡くなりました。年が離れていることもあり、私をとても可愛がってくれました。勉強もできて、私にとっては憧れの姉でした。生きていれば50歳。川奈さんと同い年です。姉も色白で端正な顔をしていました。だから川奈さんと姉がダブって見えていたんです」
町田は穏やかな口調だった。
「駅まで送る」と町田は言ったが「近いので」と佐世子が断り、町田クリニックの出口で二人は別れた。
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