ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(5)

2020-11-02 22:22:54 | 小説

8月に入り、暑さはますます激しさを増したようだ。最寄り駅から電車で3駅。東口を5分ほど歩いたところに町田メンタルクリニックの看板が目に入った。少し前から、長女の麻美に相談していた。「それほど大病院ではなく、医者と患者がゆっくり話せて、出来れば医師は女性の方がいいのでは」といった会話から町田メンタルクリニックが浮かび上がった。精神を深く病んでいるとは思わない。しかしここ数年、外出が減り、不眠の症状に悩まされているのも事実である。そして何よりもこの苦しみを誰かに打ち明けたい。

公園の角を左に折れ、向かって左にあるらしい。数十秒歩くと、町田メンタルクリニックの看板があった。白壁のこじんまりとした建物だが、清潔感はある。駐車スペースが建物のサイズの割にそれなりにあり、車もぽつぽつと置いてある。佐世子が自動ドアに足を乗せ、院内に入ると「こんにちは」と受付の女性が挨拶してきた。その女性の指示に従い簡単な手続きを済ますと、壁際の長椅子に腰かけた。院内の丸い時計は午後3時25分を過ぎている。予約時刻は3時半。佐世子は場違いなのではないかという思いがこみ上げ、心臓の鼓動が少し速まった。佐世子と同年代の患者と思われる中年女性が右奥の通路から姿を現し、佐世子と距離を置くように右隅に腰かけた。

「川奈さんどうぞ。右の通路の突き当りが診察室になります」
受付の女性に声を掛けられ佐世子がドアをノックすると、診察室の中から彼女の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。

「こんにちは。よろしくおねがいします」
佐世子が顔を上げると、テーブル越しに40代くらいの白衣を着た女性が椅子に座っていた。おそらく佐世子よりいくつか年下だろう。そして女医が口を開いた。
「こんにちは。あれ、お母さんは?あなた付き添いですよね?」

佐世子はある程度、覚悟していた。こうした扱いには慣れてはいるが、相手の驚いた顔にはいつになっても慣れない。「母が突然、帰ってしまいました」で片づけてしまおうか。迷った末に発した言葉は「川奈佐世子は私です」だった。
「ああ、そうでしたか。それは大変失礼しました。どうぞお掛けください」
町田は驚きと困惑を隠すように、冷静を装ったトーンで話した。
「それで、どうされましたか?」
町田が質問を始めた。






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若い罪(4)

2020-11-02 18:55:26 | 小説
東京の短期大学を卒業後、都内の病院で事務の仕事をしていた。「今度合コンがあるんだけど、たまには佐世子も参加してみない?間違いなくモテモテだから」と同僚に誘われ、渋々ながら参加した。気取ったところのない庶民的な店だった。一応レストランではあるのだが、外観も内装も新しいとは言えない。4人の男性の中に孝がいた。他の男女6人はそれなりに盛り上がっていて、雰囲気に打ち解けられない佐世子と孝が端の席に追いやられていた。
「どうしてもこういう場が好きになれなくて」
孝が少しはにかんだ。
「私もそうなんです」
佐世子は少しうつむき加減だった。これが二人が最初に交わした言葉だった。たどたどしく趣味の話などをした後、連絡先を交換した。数日後、孝が電話をよこし二人きりで会うことを約束した。

その後、交際は順調に進み、1年もたたないうちに孝の「結婚してください」と彼らしい飾り気のないプロポーズを佐世子は「私でよかったら」と素直に受け入れた。孝の実直さが好きなことが最大の理由だったが、漠然と「この人と結婚すれば、私の一生は幸せのうちに終わる」という思いが佐世子の中にあった。

静岡に住む両親にも孝を紹介し、賛成してくれた。普段は口の重い父は孝や佐世子の家族の前ではほとんど何も話さなかったが「なかなか真面目そうな青年じゃないか」と佐世子だけにポツリと呟いた。孝の岡山の両親も佐世子を大変気に入ったようで「孝、この人を一生守るんだぞ」「娘が一人増えたようで嬉しい」などとありきたりな言葉ながら、孝の両親の喜びようが伝わってきた。

あの出会いの場に参加していた同僚たちは、素直に喜んでくれなかった記憶がある。「ええ、あの人と」「背が低くて顔も地味。まあ、公務員だから安定はしていると思うけど」「佐世子ならもっと素敵な人がいくらでもいるよ」。やっかみ半分もあるのかもしれないが、今にして思うと、理由は違えども孝との結婚は間違いだったという意味では、あの無責任な論評は少し当たったのかもしれない。いや、佐世子は孝どうこうではなく、誰とも結婚すべきではなかったと思うに至っていた。しかし、あの頃の佐世子にそれが想像できるはずもない。とにもかくにも、二人は結婚した。孝27歳、佐世子24歳の時だった。

新婚の頃、自宅に招いた孝の同僚がからかい半分に「まあ、お前が多少老け顔なのもあるけれど、奥さんと3つしか離れていないようにはとても見えないなあ。奥さんは二十歳前後の学生くらいにしか見えないよ。見た目では10才は離れてるぞ。うらやましいなあ、この野郎」。この言葉が予兆だったのかもしれない。そんなことも知らず、この時、佐世子は素直に喜んでいた。孝も嬉しそうだった。しかし歳月が流れ、問題は大きくなるばかりだったのだ。佐世子は覚悟を決め、2日後に病院を訪れることになっていた。


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若い罪(3)

2020-11-02 18:20:52 | 小説
麻美は3人兄弟の1番上で、大学の教育学部を卒業し、2年前、教師になった。その時に実家を出て、通勤に便利なここから電車で1時間近く離れた場所に、ワンルームの部屋を借りて暮らしている。そして空き部屋となった2年前から、佐世子が寝室として利用している。かつての娘の部屋は、佐世子が最も心安らぐ場所になった。

何故、佐世子が麻美の部屋を使うようになったのか?初めに麻美の部屋を寝室として使いたいと言い出したのは夫の孝だった。孝は約3年の間、リビングで寝ていた。しかしそれには末娘の彩乃が反対した。「お姉ちゃんの部屋にパパが寝るのは嫌だ」と。孝は「そうか、わかった」と言ったきり口を閉ざした。孝は彩乃に対しては、上の二人の兄姉とは別の接し方をしてきた。簡単に言えば甘いのである。注意さえした事がないのではないかと思えるほどだ。この時も「どうして?」と聞き返すこともできなかった。

彩乃は6つ年上の麻美に可愛がられ、彩乃も麻美を慕っていた。漠然と彼女の気持ちを察した佐世子は「じゃあ、私が使わせてもらおうかな」と言って彩乃に視線を向けた。彩乃は少し孝の様子を窺うようにしてから頷いた。それからというもの、孝はリビングから佐世子一人で使っていた夫婦の寝室に戻った。

佐世子はしばらくベッドで目を閉じていたが、なかなか寝付くことができない。すでに午前1時を大きく回っている。子供たちに弁当を作る役割も終えた。仕事はパートを含めても10年ほどしていない。外出は週3回程度の買い物ぐらいだ。私は必要なのだろうか?この社会に。この家族に。

少なくとも5年程前までは夫の孝には必要とされていた。彼は佐世子の体を求めていた。しかし突然「しばらくの間、リビングで寝る」と孝は言い出した。「どうして?」と問い返すと「仕事が忙しくてね」と力なく笑った。納得がいくような、いかないような理由だった。「しばらくの間」は佐世子の思考では1週間か10日、長くて1か月程度だと判断していた。それが2か月たっても3か月たっても孝はリビングで寝続けている。そして5年が経過した。佐世子の閉じられている瞼から少しだけ涙が滲んだ。どうして私は家族からも社会からも不要な人間になったのか。




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若い罪(2)

2020-11-02 15:41:37 | 小説
夕食が仕上がりつつある頃、夫の孝が帰ってきた。リビングに入るなり「ああ、いい匂いがする」とくつろいだ声を出す。
「カレーです。何の変哲もない」と佐世子は笑みを浮かべる。
「いや、何よりの御馳走だよ」
そう言いながら冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。二階の正志と彩乃にも声をかけたが、しばらくしてリビングに降りてきたのは正志だけだった。彩乃はやはりすんなりとは降りてこない。今日も一人で遅い食事をとるのだろう。夫も正志には時折、厳しい言葉を投げかけるが、彩乃には甘く、嫌われたくないのかあえて優しい言葉を探しながら話し掛けているようだ。

「誰に似たのかねえ。そんな背ばっかり高くなって」
「分からない。親父は小さいしな」
正志はスマホを眺めながら言う。佐世子は160センチ前半で女性としてはやや長身の部類に入るだろう。しかし、父親の孝は佐世子より心持高い程度で、若い頃、佐世子が少しヒールの高い靴を履くと、不機嫌になっていたのを思い出す。顔も母に似たのか端正な顔立ちをしている。

孝は顔を息子に向けた。
「正志」
「うん?」
「いかに大手とはいえ、本当に銀行でいいのか?」
「特に不満はないけど」
「まあ、あの銀行は今でも大学生に人気の就職先というのは分かる。しかし5年後、10年後を考えたらどうなんだろうな?」
孝は酒に強くない。少し酔いが回っているようだ。
「5年、10年は大丈夫じゃないの?」
「じゃあ20年後は?」
「お父さん。そんな先の事まで言われても正志だって困るでしょ」
佐世子が口を挟む。
しかし孝は少し佐世子に目を移しただけで再び話し始める。
確かに20年後のことは誰にも分からない。しかし銀行はすでに人員削減を打ち出しているじゃないか。人手不足の世の中で時代に逆行するように。AIの影響がいちばん出やすい業界なんじゃないか、銀行は」
一息つくように孝は水を飲み干す。
「まあ親父の言う通りかもしれないけれど、そのうち他の業界も後を追う事になるよ」
ここの所、毎日のように似通った話を父と息子は繰り返している。

12時前、佐世子は寝室のベッドに体を横たえた。部屋を見渡せば、長女の麻美の抜け殻が目に映る。机、本棚、クローゼット。ぬいぐるみもある。最も古いものは麻美が幼稚園の頃、母子が手をつないで買い物していた時、麻美が子熊のぬいぐるみを指差し「あれ、欲しい」と頼まれて買ったものだ。今では少し色褪せた子熊は何個もあるぬいぐるみの中でも特等席に座っている。あの頃が最も幸せだったかもしれないと佐世子は子熊を見つめて思うのである。


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若い罪(1)

2020-11-02 14:18:29 | 小説
今月、川奈佐世子は50歳を迎えた。自転車で15分ほどかけ、ショッピングモールへ向かう。それほど急いでペダルをこいでいる訳でもないのに息が切れる。自転車置き場でスペースを探している間に流れ出てくる汗。年齢を感じるとともに、今年も本格的な夏が来たことを自覚させられる。黒縁の伊達メガネ。少し深くかぶったつば付きの帽子。白いシャツにブルージーンズ。靴はウォーキングシューズである。化粧はしているかしていないのか分からない程度に抑えている。

スターバックスに入ってアイスコーヒーを飲み一息ついてからスーパーへの移動中、老婆に声を掛けられる。
「ちょっとお嬢さん」
彼女は自分の母親と同年代くらいに見える。
「今何時かわかりますかね」
佐世子はスマホで確認し、「2時半です」と言う。もう一度聞き直してきたので、声のトーンを少し上げ、ゆっくりと2時半と伝えた。

スーパーに入り、佐世子は今日の夕食、そして出来ればこの先2日ぐらいの食材を含めた生活用品を買いだめしようとしていた。2日、欲を言えば3日は外に出たくないのだ。

夕方、自宅に戻ると、長男の正志が大学から戻っていてリビングのソファーに座っていた。佐世子はリビングとつながっているキッチンで夕食の準備に取り掛かった。
「就職が決まったからって、スマホばっかり眺めてていいの?」佐世子は夕食の準備の手を止めずに言う。
「別にそういう訳じゃないよ。バイトもあるし、卒論も書かなきゃいけないし」
正志は面倒臭そうに話した。

程なく高校生の彩乃が帰ってきた。玄関を閉める音がしたので、佐世子は慌てて火を止め、玄関へ向かった。
「おかえり」
佐世子は満面の笑みを作り彩乃を迎えるのだが、彼女はそっけなく「ただいま」と言い残し、2階の自室に姿を消した。このような状態がもう何か月続いているのだろう。三人兄弟の末っ子ゆえに、知らず知らずのうちに甘やかして育ててしまったのかもしれない。遅れてきた反抗期だろうか?それとも高校3年になり、受験を控えてナーバスになっているのだろうか?どれも少しずつ当たっているのかもしれない。しかし根本的な原因が自分にあることを佐世子は心の奥では分かっていた。

(2019年作品)





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