ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(62)

2020-11-15 22:40:39 | 小説
「一体、正志はどれだけの人の生活を変えてしまったのだろう。命を奪われた夫は言うまでもなく、殺人未遂の被害者である林田さん。正志の母の私は仕方ないけれど、本来は2人の娘には責任はないはずなのに」
正志に対して憎悪が湧いてくるのを佐世子は抑えきれなかった。
「娘さんに何かあったんですか?」
恵理は佐世子の顔を観察するようにじっと見つめた。
「妹は心を入れ替えたように物事に取り組むようになりました。一浪しましたが、大学生になれました」
そこで佐世子の言葉が途切れた。

「よかったですね。おめでとうございます。それでお姉さんはどうしました?言いにくければ結構ですが」
恵理は不安そうに佐世子を見た。
「それがあまり上手くいってないようで」
「どういう風に上手くいってないんですか?」
恵理の問いに佐世子はどこから話せばいいのか思案していたが、丁寧に伝えることにした。恵理を信頼できる女性と佐世子は判断した。

「長女は麻美というんですが、子供たち3人の中ではいちばん手のかからない子でした。弟や妹の面倒をよく見て、勉強もできました。大学に進学し、教師を志望して小学校の教員になりました。
「麻美さんは優等生だったんですね。怒ったことなんてないんじゃないですか?」
恵理は空になったコーヒーカップを取り出し、再び湯気の立ったコーヒーを注ぎ、カウンターに戻した。
「そうですね。怒ったことはないかもしれません。下の2人にはよく注意しましたが」
「弟さんとはいくつ離れてるんですか?」
「2つです」
「事件が起きた時は、教員になって2年目ぐらいか」
恵理は指折り数えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(61)

2020-11-15 22:30:04 | 小説
それにしても、あの人に店に少し通っただけの女性の家に住むだけの度胸があったなんて信じられません」
佐世子は前方の冷めたコーヒーを眺めながら首を捻った。
「息子さん、刑務所での様子はどうなんですかね?」
「ええ。自分の父を殺した罪。それに見知らぬ女性を殺そうとした罪をしっかり償ってほしいとしか彼にかける言葉はありません」
佐世子の顔はさらに神妙になった。
「私のはいいんですよ」
恵理は右手を横に振った。
「まだ精神的なショックは残っていますか?」
佐世子はK公園で起きた事件を想像した。正志の刃は間違いなく恵理に向かって進んだのだ。

「いや、全くないと言えば嘘になるけど。あんな一瞬の出来事なのに人間て弱いですね」
淡々と語りながら、僅かに笑みさえ浮かべている。この人は本当に強い人だと佐世子は思った。
「少しでも兆候があれば、私も息子を注視したはずなんですけど、息子がそれを外に出さなかったというか。私が見抜けなかったというか。完全に母親失格です」
佐世子は無念の表情を浮かべた。
「吉川さん、元がまずいコーヒーは冷めたら飲めません。入れ替えてきますね」
恵理が笑顔を浮かべた。
「いや、このままでいいです」
佐世子は急いで飲み干した。
「私も若い頃、結婚していて、子供が欲しかった。今でも1人ぐらいは作っておけばよかったと思う時もあります。ただ、こういうこともあり得るんですよね。そう思うと、1人で生きていく寂しさもあったけど、身軽なところもあるんだなって」
恵理の言葉は遠回しに佐世子を庇っているようでもあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(60)

2020-11-15 16:51:27 | 小説
でもそれが原因で、家族を苦しめたのは自覚しています。夫も含めて」
「そうですか。ただ、それは自分で調節したり出来るもんじゃないですよね」
うっすらと笑った恵理を佐世子がカウンター越しに神妙な顔で見つめる。
恵理が背筋を伸ばしながら佐世子に正対し、目を合わせた。平手で叩かれるくらいは覚悟した。しかし彼女の予測は外れた。
「息子が、正志が大変ご迷惑をおかけしました。林田さんは殺人未遂の被害者です」
佐世子は深々と頭を下げた。
「吉川さん、頭を上げてください。謝らなければならないのはこっちですから」
恵理が慌てた様子で促したのが聞こえたのか、佐世子はゆっくりと頭を上げた。
「私がこの事件の原因を作りました。なぜ川奈さんが月に2、3回程度訪れるだけの居酒屋の中年女を頼ったかは良くわからないのですが、今にしてみればきっぱり断るべきでした。そうすれば、どこかのマンションなりアパートを借りていたはずですから」
恵理の淡々とした口調の中に後悔が滲んだ。

「何故なんでしょう。アパートを借りたことには何の疑いも持ちませんでした。それも個人的に親しいとも言えない女性の家に」
佐世子の顔には困惑と未練が入り混じっていた。
「正直、これまでに何度か同じようなことがありました。独身も結婚している人もいましたけど、大抵はもっと親しい間柄でしたね。片想いや両想いだったことが多いです。ただ川奈さんの場合、たまにくるお客さんという印象で、川奈さんも私を好きだったかといえば、そうでないような気がします。こればかりは川奈さんがいないので確認しようがないですが」
恵理の言葉にはそれなりの説得力があった。常連客とも言えないような中年男が彼女を頼って転がり込んできたのだから、相当な違和感があっただろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(59)

2020-11-15 16:16:45 | 小説
4月に入り、桜も見頃を過ぎた。彩乃はすでに大学へ通い始めている。佐世子も工場の仕事を週4日から5日に増やしてもらった。麻美は電話やメールでのやり取りでは、まだ塾講師をしていて、教員への復帰の目途は立っていないようだ。若い麻美や彩乃は、今後どれだけ家族について聞かれるのだろう。特に就職や結婚という彼女たちにとって人生を左右するような大きな転機になればなるほど、相手側は家族について知りたがる。佐世子はそれを思うと正志を育てた責任の重さが骨身に沁みてくる。

佐世子はどうしても会わずにはいられない人物に連絡した。向こうも同じ気持ちだったというので、4月8日、午後2時前、指定の場所にいる。小さな店の前だ。チャイムを押す佐世子の右手が少し震えた。
「少々、お待ちください」
ドアが開き、林田恵理が目の前に姿を現した。
「どうぞお入りください」
比較的、明るい声だった。
「失礼します」
佐世子は硬さのとれぬ声で恵理の店に足を踏み入れた。

彼女は春物の白いセーターに黒のロングスカートという出で立ちだった。髪はショートカットと言っていいだろう。化粧も厚くはないが隙は無かった。実際には小柄なはずなのだが、決して小さくは見えない。この商売で長年生きてきた独特の強さのようなものが感じられた。
「あれ、娘さんですか?」
「いえ、私が川奈の妻です」
数え切れないほど繰り返してきたやり取りだった。しかし、このルーティーンのような会話で不思議と佐世子の緊張は解けた。二人は初対面ではない。しかし、まともに目を合わせた事もなかった。
「川奈さんから妻は凄く若く見えると何度も聞いていたけど、まさかここまでとは」
恵理は驚きを隠さなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(58)

2020-11-15 16:07:01 | 小説

「どうぞ」
佐世子が町田に声をかけた。その後ろに文庫本2冊の入った袋を抱えた彩乃がいる。
「じゃあ少しだけお邪魔します」
入ってすぐにキッチンがあり、向かい側にバス・トイレ。正面には6畳間があり、襖で仕切られた奥の部屋も和室の6畳間だ。クローゼットや押し入れもある。

「いい場所見つけましたね。奥の部屋は西日が強そうだけど、2Kですか」
町田は家の中を見回しながら口にした。
「ええ、2Kですね。手前が私の部屋と食堂をかねて、奥の部屋は彩乃が使う予定です」
「彩乃ちゃんにとっては丁度いいアパートだと思いますよ」
「丁度いいんですか?」
やや小柄の彩乃が上目づかいに長身の町田を見つめる。
「うん、あんまり広くて綺麗な家に住むと、少なくとも家に関しては欲がなくなってしまうの。でもこれくらいのアパートだと住むのには支障がないけれど、『もっと広い家に住みたい。綺麗な家に住みたい』って思うようになる。少しおなかを減らしといたほうがいいんだよ。彩乃ちゃんのような若い子は」
町田は彩乃の未来を想像しているような顔をしていた。

「そんなもんですかねえ」
彩乃は半信半疑の様子だ。
「そのうち分かるよ。じゃあ彩乃ちゃん、本の感想を楽しみにしてるから。佐世子さん、また連絡ください」
すでに玄関で素早く靴を履き「お元気で」と言い残して玄関のドアを閉めた。佐世子と彩乃もあっけにとられながら後を追ったが、車はすでに走り出していた。佐世子と彩乃は車の後方から深く頭を下げた。
「女神のような人だね。私たちにとって」
佐世子の言葉に彩乃は「うん」と頷いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(57)

2020-11-15 09:58:14 | 小説
これ貸してもらえませんか?」
彩乃が町田の様子を伺う。
「へえ、こういうのが好みなんだ。センスいいね。2冊ともなかなか面白いよ。いちいち返しに来なくてもいいからね。それあげるから」
「いえ、返します。また朋子先生に会えるから」
「嬉しいこと言ってくれるね。では必ず返しに来なさい」
町田は笑って彩乃の頭を少し乱暴に撫でた。
「下でお母さんが待ってるよ。早く行かなきゃ」
「はい」

「それにしても彩乃が小説を借りるなんてね。受験勉強で活字好きになったのかな」
佐世子は関心しながらも、意外そうな口ぶりだった。以前の彩乃にとっての本と言えばコミックと決まっていた。
「私だって成長するの。でも、やっぱり受験勉強が大きかったかな。活字慣れしたというか」
助手席の彩乃は少し誇らしげだった。
「私だったら1日で彩乃ちゃんの持ってきた2冊読んじゃうけどな。時間があれば」
前方に視線を送りながら町田は言った。
「1日に2冊ですか?」
彩乃が右横へ視線を送る。
「彩乃ちゃんも驚くほど速く読めるようになってると思うよ」
「はあ」
彩乃は半信半疑の返事をした。
「この辺りですよね」
「次の道を右です」
車で20分程度でも町田の自宅周辺とは随分、趣きが異なる。昔からの建物と新たな物が混在していた。町田は車をアパートの前に停めた。
「町田先生も見てもらえませんか?」
「じゃあ少しだけ。車置きっ放しなので」
3人が車から降り、2階アパートに向かう。
「こちらから入って1階の奥から2番目です」
佐世子が町田に説明しながら、鍵を取り出した。佐世子がドアを開けるまで、町田はアパートを眺めていた。決して新しくはない。築15年といったところか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い罪(56)

2020-11-15 09:41:16 | 小説
町田はわずかに開いていた佐世子との距離を詰めていった。
「お姉さん」
町田の声はかすれ気味だった。彼女の両手は軽く佐世子の両肩に触れ、その背中に手を回した。時折、町田は強く佐世子を抱き寄せた。そのまま1分弱程だろうか、2人は動かず、そしてゆっくりと町田は佐世子を離した。
「ごめんなさい。でも本当に嬉しかった。姉の育海に再会できたような気がします」
町田は目頭を押さえていた。佐世子が初めて見た彼女の涙だった。
「お元気で」
その町田の短い言葉にどれだけの思いが込められているのか、佐世子は想像した。

町田の家を出ていく日が来た。荷物はすでに引っ越し先のアパートに運んである。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。車、出しますね」
町田の車でアパートまで送ってもらうことになっている。20分程度で新たな住処に到着するだろう。
「朋子先生、ちょっといいですか?」
彩乃はいつからか町田を下の名前で呼ぶようになっていた。
「うん、いいよ」
基本的に町田は彩乃の言ったことを否定しない。佐世子とどちらが本物の母親か分からなくなるくらい、町田は彩乃を可愛がり、彩乃は町田を慕っている。
「先生の部屋、見せてもらえますか?」
「別にいいけど面白いものは何もないよ」
部屋へ案内した町田は怪訝そうな顔だ。彩乃は本棚を見ている。
「彩乃ちゃん、今度は心の病に興味を持ったの?」
「いえ、そうじゃないです。もっと娯楽的な本です。それにしても凄い量ですね」
彩乃が目を移動させながら言う。
「それほどでもないよ。1000冊はあると思うけど」
結局、悩んだ末に彩乃が手に取ったのは警察小説と恋愛小説の文庫本だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする