ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(38)

2020-11-11 15:16:48 | 小説
「いや、俺はいいよ。遠慮する」
孝は真顔で否定した。恵理はからかうように嫌がる孝の手を引っ張る。
「いいじゃない、行こうよ。この人が私の彼氏ですって紹介してあげるから」
恵理が笑うと、それにつられるように孝も少し笑った。その時だった。2人が若い男に気付いたのは。全身黒づくめで黒のニット帽を被った男は木々の中から飛び出すと、2人が座っているベンチの方向へ走り出す。一瞬のことでK公園でくつろぐ人々は、まだ皆穏やかな顔をしている。若い男は距離を縮めながら何かを叫び、恵理を目がけてナイフを向けた。恵理は逃げようとしてベンチから体を浮かしたが、もう間に合いそうにない。慌てて孝が男の前に飛び出した。ナイフが孝の腹部に突き刺さった。男は慌ただしくナイフを孝から抜き、足早にK公園から姿を消した。

公園内がにわかにざわつき始めた。白いシャツに真っ赤な血が広がっていく。恵理が声を枯らして「孝さん、孝さんと呼びかける。数分後、救急車が到着し、孝は近くの大学病院に運ばれた。虫の息の中、孝は「犯人の罪を軽くしてください」と言い残し、そのまま意識を失った。病院に到着した時には心肺停止しており、まもなく死亡が確認された。所持品から身元はすぐに判明した。川奈孝 53歳。病院は妻である佐世子に夫が殺人事件の被害者になった事を知らせた。佐世子は彩乃を連れて数十分後に病院へ到着した。慰安室に彩乃の泣き声が響き、佐世子は感情を失った顔で孝を見つめていた。死因は大量出血によるショック死だった。

事件から3時間が経過した午後8時過ぎ、犯人は都内の警察署へ自首した。名前は川奈正志。川奈孝の息子だった。
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若い罪(37)

2020-11-11 15:08:22 | 小説
夕食を終えると早々に正志は自室に閉じこもった。明かりをつけたままベッドに横たわり、何んとなしに子供の頃を思い出していた。初めて自転車に乗れるようになった日、初めて泳げるようになった日、どれも鮮明に覚えていた。そしてその映像の中には必ず孝がいた。
自転車の特訓では途中まで倒れないように支え、そっと手を離す。当然のように正志は右へ左へと何度も倒れる。その度に「痛い」「もう無理」と弱音を吐く正志に「はい立ち上がって」「もう1回」と耳が聞こえなくなったように、正志の体を心配するような言葉はかけてくれない。「もう止める」という諦めの声が出かかった。
どれぐらい転倒しただろうか?「その調子、その調子」と孝が言う。左右にぶれながらも、ペダルをこぎ続けている自分がいる。自然と笑っていた。孝に頭を撫でられ「よくやった。大したもんだな」と褒められ、有頂天になる正志。そんな光景が次々と浮かんだ。次第にそれは淡くなり、白くなり、歪んでいった。正志は浅い眠りに落ちた。

秋の土曜の午後、昔ながらの夕食を終えると早々に正志は自室に閉じこもった。明かりをつけたままベッドに横たわり、何んとなしに子供の頃を思い出していた。初めて自転車に乗れるようになった日、初めて泳げるようになった日、どれも鮮明に覚えていた。そしてその映像の中には必ず孝がいた。
自転車の特訓では途中まで倒れないように支え、そっと手を離す。当然のように正志は右へ左へと何度も倒れる。その度に「痛い」「もう無理」と弱音を吐く正志に「はい立ち上がって」「もう1回」と耳が聞こえなくなったように、正志の体を心配するような言葉はかけてくれない。「もう止める」という諦めの声が出かかった。
どれぐらい転倒しただろうか?「その調子、その調子」と孝が言う。左右にぶれながらも、ペダルをこぎ続けている自分がいる。自然と笑っていた。孝に頭を撫でられ「よくやった。大したもんだな」と褒められ、有頂天になる正志。そんな光景が次々と浮かんだ。次第にそれは淡くなり、白くなり、歪んでいった。正志は浅い眠りに落ちた。

秋の土曜の午後、昔ながらの喫茶店から西日に照らされた中年の男女が出てきた。
「今日はいつもより美味しく感じた」
「10月に入ると、やっぱりホットコーヒーがうまくなるね」
孝と恵理の足取りに迷いは感じられない。ここから南へ数百メートル歩けばK公園だ。もう何度目になるのだろうか?二人のデートコースの締めとしてすっかり定着した。そこでしばらくくつろいでから、恵理は仕事場である居酒屋へ向かうのだ。孝は両手を天に向かって伸ばした。
「気分いいね。まだ日本にもこんな穏やかな日があるんだ」
恵理も真似して両手を伸ばした。
「ほんとだ。気持ちいい。たまにはここから一緒に店に行く?」
恵理がいたずらっぽく笑った。から西日に照らされた中年の男女が出てきた。
「今日はいつもより美味しく感じた」
「10月に入ると、やっぱりホットコーヒーがうまくなるね」
孝と恵理の足取りに迷いは感じられない。ここから南へ数百メートル歩けばK公園だ。もう何度目になるのだろうか?二人のデートコースの締めとしてすっかり定着した。そこでしばらくくつろいでから、恵理は仕事場である居酒屋へ向かうのだ。孝は両手を天に向かって伸ばした。
「気分いいね。まだ日本にもこんな穏やかな日があるんだ」
恵理も真似して両手を伸ばした。
「ほんとだ。気持ちいい。たまにはここから一緒に店に行く?」
恵理がいたずらっぽく笑った。
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若い罪(36)

2020-11-11 12:01:34 | 小説
「母さんは俺たち兄弟3人と親父を同じ理由で苦しんでいたと言ったけど、それは違うんじゃないの。10代の人間と40、50の人間をいっしょくたにするのは違うし、母子と夫婦を一緒にするのも違う。実際に若い女性と浮気しているわけではないんだし、妻が若いなら他人から見たら、羨ましいんじゃないの?その類の嫉妬は多少あるにしても」
確かに正志のほうが正論のようでもあるが、佐世子は何とか言葉を繋がなければならなかった。
「はっきりした事は分からないけど、私みたいな病的な若さより、現実的な中年女性を選んだのは事実なわけだし」
佐世子の表情に微かに悔しさが滲んだ。
「多分、長年積み重なった不平、不満からこんな行動に出たんじゃないかな。無口な人間ほどストレスをため込んで、一気に爆発する危険があるとはよく聞く話だけど、まさか自分たちの家族にそれが起きるとは思いもよらなかった。本音では何を考えていたんだろう、お父さん」
麻美がため息交じりに話した。

ずっと黙っていた彩乃が、彼女なりの提案をする。
「今日はこれぐらいにしといて、また次に4人で集まって結論を出せばいいんじゃないかな?」
彩乃の先送り案を佐世子は諭すように否定した。
「彩乃、4人で集まってこの話をするのは、今日が最初で最後だよ。一応、みんなの意見を聞いて、最終的に決めるのはお母さんだから。まだ答えが出てる訳ではないけどね」
彩乃は不満と安堵が入り混じった顔を浮かべた。
「じゃあ、解散ということで。といっても帰るのは姉ちゃんだけか」
正志が椅子から立ち上がりながら、炭酸が抜けたような声を出したことで、場が少し和んだ。麻美が「駅まで送っていく」という彩乃を連れて、玄関のドアを開けた。日は西に大きく傾き、街はすでに夕暮れだった。
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