白雲去来

蜷川正大の日々是口実

やすらぎの里でやすらぎを得た。

2011-06-26 08:59:57 | インポート

六月二十五日(土)晴れ。

 六時に起きた。今日は、断食明けで朝食の後に自宅に戻る。着替えなどを整理して宅急便で自宅に送るので、朝から片付けに追われた。

 九時に朝食。アジの開きが、何か特別なご馳走に思えてしまう。皆さんに挨拶をして、九時四十分の電車で伊東へ。ここから「踊り子号」に乗り換えて横浜に行く。震災以来、昼近くの「スーパービュー踊り子」が間引き運転をしているために時間がかかって仕方がない。JRも、震災を口実に、暇な路線の運転を止めているとは、もっぱらの噂。

 梅雨の合間の晴天。山頭火の句、「伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も」ではないが、テレビの気象情報を見ても、伊豆は、東京などと比べて三度ほど暖かい。車窓から眺める海が夏の日差しに照らされて光っている。残念ながら大島は霞の中だ。

 以前、隠岐康氏の大学の先輩である和歌山の大島隆氏と断食の帰り、大島氏が、「おい隠岐よ、あそこの島は何だと」と聞くと、隠岐氏は「大島です」。「何、お前は先輩を呼び捨てにするのか」と茶化して、皆で大笑いをしたことを思い出した。以来、大島氏とは良いお付き合いをさせて頂いている。

 横浜駅で、隠岐氏にご挨拶をして下車。隠岐氏には、本当にお世話になった。私の健康を気遣って毎年「断食」に誘ってくれる。感謝してもしきれない。隠岐氏に限らず、弊社の社友会の人達には良い人が多く、恵まれていると思っている。普段は、友達面をしているが、何かあれば掌を返したような態度をとるような者が多い中で、真の友人というのは、本当に一握りだ。

 以前から、六十五歳になったならば、社友の斉藤義一氏のお世話で、千葉の千倉という海の近くに引越し、晴耕雨読に徹して、暮らそうと考えていたが、今回の震災で、海のそばが怖くなってしまった。まあ、忘れっぽいので二年もすれば、そんな感情は失せているだろうから、何とか実現したいものだ。

 自宅に戻って、片づけを済ませてから、上の子供の学校の演奏会に行く愚妻を送ってから、下の子供と中華街の「安記」に行った。断食上がりでもあるし、朝食にほとんど手をつけなかったので、五目粥が美味しかった。その後、みなとみらいのスーパーで買い物。豆腐、納豆、野菜が中心。

 夜は、一週間ぶりに、サラダとコンニャク炒めを肴に、アッコ姐さんから、還暦祝いに頂いた「赤霧島」で晩酌した。学校から届いていた子供の修学旅行の写真を見たら、四十五年前に私が、やはり京都の同じ場所で集合写真を撮っているのを思い出して、古いアルバムをめくってみた。やはりそうだった。名所旧跡のベストポイントであるから、二条城や清水寺などで集合写真を撮る場合は、いつ誰が行っても、当然、同じポイントとなるのは仕方がないとしても、四十五年も前の同じ場所で、当時の私と同じ歳の子供の写真を見る。何か不思議な思いにさせられた。

 景色というのは油断がならない。わずか半世紀あまりの歳月では変り様もない。しかし、自分だけが年老いて行く。いつか子供も、こんな感慨にふけるのだろうか。久し振りの酒で少々酔った。


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