六月一日(水)曇りのち雨。
今日は、牧田吉明氏の一周忌。終焉の地となった岐阜では、細川先生らが「山猫忌」を行なっているそうだ。合掌。
正午より、横浜の開港祭に関連して護衛艦の体験乗艦という催しがあり、弊社の社友である隠岐康氏のお世話で松本佳展君と共に参加した。
昼過ぎに松本君と一緒に護衛艦「はたかぜ」が接岸している新港埠頭へ向う。新港埠頭は赤レンガ倉庫の裏という絶好のロケーションにある。整備された海岸沿いのプロムナードには「ララ物資」の記念碑があり、香淳皇后様が詠まれた御歌が刻まれている。
※「ララ物資」の記念碑。この記念碑は、「ララ」物資を送ってくれた人々への深い感謝と、当時ご尽力された人々の功績を後世に永く残す為に、平成13年4月5日に多くの人々からの募金により建立された。昭和24年10月19日に昭和天皇陛下と香淳皇后陛下が「ララ」倉庫に行幸啓になられたときに、香淳皇后陛下が詠まれた御歌が刻まれている。
香淳皇后 御歌
ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ
心つくし ゆめなわすれそ時は へぬとも
ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日本向け援助団体。1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であった。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている。私達は、そのララ物資の脱脂粉乳を小学生の頃の給食で飲んだものだ。
岸壁には、今日私達が乗艦する「はたかぜ」が威風堂々着岸している。軍艦に限らす、戦うために作られた物は、全く無駄がなく鋭利で美しい。
艦内を一通り見学し写真を撮ったり、気分は遠足である。本格的なカメラを持った若い女性が自衛官を撮っている。「あのぉー写真を送りたいのですが、住所を教えて頂けます?」などと話しかけている。これって逆ナンパじゃネェの。でも軍人の妻となろうとするその姿勢や良し。ベイブリッジを超えた所ですぐにユーターン。三時半に下船した。
その後、中華街の「菜香」にて食事。途中で私の同級生でもあるU氏が合流。楽しい酒となった。ここでは「甕出しの紹興酒」を、ニイハオ、ニイハオと飲んだ。その後、日本一高いバー、ランドマークのバー「シリウス」に転戦。まあ高いといっても値段ではなく、ビルの高さですけど。社友のY氏のご好意で、「クリコ」のイエローを、ガァーッと飲んでしまった。
ここで一応解散。隠岐氏の関係者を帰し、関内に戻り、サリーの店へ。ここでチョット飲んでから、隣のビルに移り、「HIRO」へ。もうここでもヘロヘロなのに、同じビルのママを呼び出して、突撃した。もう何が何だか分からない。隠岐氏を横浜駅に送ってから、松本君の車で帰宅。あーあ又やっちゃった。女房に、子供達に、お医者さんに、皆さんに平身低頭、沈思反省。私が悪いのではなく、酒が悪いのです。