六月十日(金)曇りのち雨。
朝食後、三日ぶりにウォーキングに出た。歩き始めてから約三ヶ月。大分足取りも軽くなった。歩きながら郵便局などへ寄り、結局一時間半ほど歩いた。いい汗をかいた。
帰宅してからは、「大吼」の最終校正と、戦前の右翼・民族派総覧の校正に夜七時までかかった。子供達に夕食を作ってやってから、久し振りに愚妻と「清水苑」へ行った。
血糖値が高くなってから、なるべく外食を控え、特に夕食は軽いものにしていたので、焼肉は本当に久しぶりの事だ。金曜日なのでお店は混んでいた。知り合い二組に遭遇。以前に比べて余り食べなくなったので、その分会計が安く上がり助かる。
帰宅後は、録画しておいた陸上の日本選手権を見ようと思ったが、そのまま寝てしまった。
我が家の年中行事の「弔い」の表を見ると、今月の八日は盟友で「虎の会」の仲間だった、内海政久氏の命日である。平成十四年に五十三歳で亡くなっているから、元気ならば一緒に還暦をお祝いしたことだろう。埼玉の比企郡にて行なわれた彼の同志葬では友人を代表して弔辞を読ませて頂いた。確か、そのことを機関誌「燃えよ祖国」に書いたことを思い出してバックナンバーを調べてみると、平成十四年の七月号(通巻112号)に、私が読んだ弔辞を掲載してあった。
その内海氏が亡くなられる三日前には、去る五月の二十五日に亡くなられた小早川久之先生の実兄である大磯の小早川貞夫先生が亡くなられており、次賀國男先生や藤田誠一郎氏と私の追悼文を掲載した。更に、その年の六月十六日には四十八歳という若さで亡くなられた駒場勝己さんの「五十日祭」の案内も掲載されており、まるで民族派の追悼号のようになっている。
駒場さんは、同志等と共に昭和五十三年に尖閣列島の魚釣島に上陸を果した人だ。私は、昭和五十七年の七月に犬塚博英先輩や笠原正敏氏等のお世話で行なわれた「民族派青年有志・沖縄戦跡慰霊団」にて、駒場さんと一緒になり、以来、親しくさせて頂いた。その沖縄訪問の折に、タイガービーチで行なわれた親睦のBBQで、駒場さんが歌われた「流浪の旅」が好きになり、今でもたまに宴席で歌わせて頂いている。
駒場さんの他には、その沖縄の旅で一緒だった、板垣哲雄君が五年前に四十八歳で亡くなり、講師として同道された北上清五郎先生も、平成十七年に亡くなられてしまった。生者必滅、会者定離とは分かっていても、アルバムを見れば、共に旅した人たちが三名も欠けている。実に寂しいことだ。
やはり、平成十四年の六月の二日には、大行社の総師であられた岸悦郎先生が台湾で客死なされ、「燃えよ祖国」の六月号(111号)には、大行社の丸川仁氏の、「岸悦郎総師に思いを寄せて」という題の追悼文を掲載させて頂いた。平成十四年当時の「燃えよ祖国」には、翌年の四月の二十八日に、四十二歳という若さで亡くなった瀬野壽夫君の連載「蘊蓄の寅」が掲載されている。
今月は、親しくさせて頂いた方の命日が続く。しかし、その皆さんが平成十四年に亡くなられているのは不思議としか言いようがない。板垣、瀬野、内海の諸君とは若い頃から良く酒席を共にしたものだ。特に、瀬野君や彼の同志であった伊藤満氏、そして今は無所属となった佐久間五郎氏とは、その三人が同級ということもあり、私を先輩と立てて頂き、佐久間氏が下山する度に高歌放吟、時局を肴に良く飲んだものだ。その当時、軍歌以外に私達が良く歌っていたのが「学生街の喫茶店」や「いちご白書をもう一度」だった。カラオケのバックに映し出される、それらの歌が流行った当時の映像を、感慨深く眺めながら歌ったものだ。
そんなことを思い出しながら、ユーチューブで「学生街の喫茶店」を見てみようと思い、検索したら、何と、中森明菜がカバーしていた。またこれがとても胸に沁みた。カバーというより、完全に彼女の歌になっているのだ。若くして幽明境を異にした彼等を思い出す良い機会となった。
※良かったら聞いてみて下さい。