七月十日(金)曇り。
『週刊新潮』の巻頭のコラムに片山杜秀氏(かたやま もりひで、1963年8月29日 - は、日本の政治学者、音楽評論家、慶應大学教授)の「夏裘冬扇」がある。藤原正彦氏の「管見妄語」の後を継いだものだが、その「管見妄語」も「夏裘冬扇」も無教養な私には、当初、何と読むのか、どういった意味なのか分からずにいた。
調べてみると「管見」とは「狭い見識、視野の狭い考え方」、「妄語」とは「うそをつくこと、不実な言葉」と言う意味で、藤原氏が自身のエッセイに対して、謙遜して名付けられたのだろう。新田次郎、藤原てい夫妻の次男で、日本の数学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は数論で、特に不定方程式論。エッセイストしても知られる。(ウイキ)こういった日本を代表するような「知」の人に、あんまり謙遜されると、私のようなアホは全く出る幕がないなぁー。
そうそう片山杜秀氏のエッセイのタイトル「夏裘冬扇」(かきゅうとうせん)もそうだ。普通は「夏炉冬扇」で、「夏炉」は、夏の火鉢。「冬扇」は、冬のうちわ。どちらも役に立たないことから。時期はずれの無駄なもののたとえ。また、無用なもの、役に立たない言論や才能などのたとえとして使われる。では、「夏裘」とは、調べてみたら「裘」とは、獣の毛皮で作った衣服。皮ごろも。のことらしい。ナルホド。夏の火鉢と同じで、確かに夏に毛皮のコートは必要ではない。いやー勉強になるなぁー。
その「夏裘冬扇」の第59回(7月9日号)「割に合わないことをやれ」(全文はネットで読めますので興味のある方は検索してみて下さい)は「磯部浅一&安達祐実風な断末魔的恨み節でございました」という文章で締めくくられている。タレントの安達祐実はともかく、磯部浅一のことが分かる人がどれほどいるのだろうかと、ちょっと可笑しかった。
夜は自宅近くのすし屋「浜一」にて、友人と酒杯に天下の影を映して、「蜜」なる一献会。
『週刊新潮』の巻頭のコラムに片山杜秀氏(かたやま もりひで、1963年8月29日 - は、日本の政治学者、音楽評論家、慶應大学教授)の「夏裘冬扇」がある。藤原正彦氏の「管見妄語」の後を継いだものだが、その「管見妄語」も「夏裘冬扇」も無教養な私には、当初、何と読むのか、どういった意味なのか分からずにいた。
調べてみると「管見」とは「狭い見識、視野の狭い考え方」、「妄語」とは「うそをつくこと、不実な言葉」と言う意味で、藤原氏が自身のエッセイに対して、謙遜して名付けられたのだろう。新田次郎、藤原てい夫妻の次男で、日本の数学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は数論で、特に不定方程式論。エッセイストしても知られる。(ウイキ)こういった日本を代表するような「知」の人に、あんまり謙遜されると、私のようなアホは全く出る幕がないなぁー。
そうそう片山杜秀氏のエッセイのタイトル「夏裘冬扇」(かきゅうとうせん)もそうだ。普通は「夏炉冬扇」で、「夏炉」は、夏の火鉢。「冬扇」は、冬のうちわ。どちらも役に立たないことから。時期はずれの無駄なもののたとえ。また、無用なもの、役に立たない言論や才能などのたとえとして使われる。では、「夏裘」とは、調べてみたら「裘」とは、獣の毛皮で作った衣服。皮ごろも。のことらしい。ナルホド。夏の火鉢と同じで、確かに夏に毛皮のコートは必要ではない。いやー勉強になるなぁー。
その「夏裘冬扇」の第59回(7月9日号)「割に合わないことをやれ」(全文はネットで読めますので興味のある方は検索してみて下さい)は「磯部浅一&安達祐実風な断末魔的恨み節でございました」という文章で締めくくられている。タレントの安達祐実はともかく、磯部浅一のことが分かる人がどれほどいるのだろうかと、ちょっと可笑しかった。
夜は自宅近くのすし屋「浜一」にて、友人と酒杯に天下の影を映して、「蜜」なる一献会。