8月20日(金)晴れ。
昨日の、ポスターの話の続き。昭和の時代の民族派運動の主流は、街宣車による街頭活動とポスター戦が主流だった。当時は、主要駅等での停止街宣は比較的自由に行うことができた。最も、私がこの運動に参加した昭和46、7年頃は街宣車は神奈川県に大磯の大日本殉皇会の一台しかなかったと記憶している。月に一度、大磯から平塚までの各駅での停止街宣や走りながらの「流し街宣」(尊皇攘夷街頭宣伝)に精を出した。覚えているのは、小早川貞夫先生が、「この軟弱な時代に、軍歌を流して聞かせることで、世の中に喝を入れるんだ」。と言ったことをよく覚えている。当時は、珍しかったのか街宣車に向かって手を振る人がかなりいた。
街宣車は現在でも活発だが、中々、主要駅での停止街宣が交通事情や、道路使用などの問題で限られてきた。更に、ポスター貼りは、昔は現行犯でなければ逮捕されなかったが、現在では、貼ったと思われる団体に「被疑者不詳」で家宅捜査が入ったり、貼った個人が特定されると、20万、30万(各県によって違うらしい)などという法外な罰金を科せられる。また電信柱などは、ポスター除けの特殊なゴムが巻いてあり、貼れなくなった。従って、都内はもとより各地に民族派の街頭ポスターがほとんど見られなくなった。もちろん左翼とて同じだ。
今でもたまに、まっさらな電信柱を見ると、「ポスターを貼りたい」という思いが脳裏をよぎる。ポスターが、SNSやユーチューブ、フェイスブック、ブログ等に代わり、民族派も文明の利器を利用するようになった。しかしアナログな時代も懐かしく思える今日この頃でもある。
夜は、マグロの刺身、「王将」の水餃子、肉じゃが。お供は「伊佐美」。酔狂亭にて独酌。
※写真は、昭和48年頃、私が主宰していた横浜青年政治研究会のポスター。当時、私は「一誠」と名乗っていた。