9月27日(火)晴れ。安倍元総理の国葬。
朝食は抜いた、というより起きられなかった。昼は、焼きそばチャーハン、ほうれん草の味噌汁。夜は、カツオの刺身、紅鮭、メンチカツ、鶏の煮物。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。
安倍元総理の国葬儀が行われた。マスコミは、敢えて「国論が二分」を強調している。ひどいなと思ったのは、国会前に集まった国葬に反対する人たちが、国葬の黙祷の時間に「鳴り物」を鳴らして抗議したと言うこと。いつから日本人は、これほど下劣になったのだろうか。いや日本人のすべてが、と言うわけではなく、そういった人たちをマスコミは「市民団体」とか言って、「国民の声」のように操作する。国葬に是非があることは承知している。しかしどんな立場の人であっても、静かに送れないものだろうか。死者に対する哀悼の念を抱けないような人たちがいる。野党の政治家がこういった集会に参加したり、国葬に招待されながら欠席することを自己宣伝する。まあこういった野党である限り、自民党は安泰だろうな。
岸田総理の弔辞と菅元総理の「友人代表」の弔辞を比較して、岸田総理の弔辞に「心がこもっていない」「棒読み」。反対に菅さんの弔辞には「感動した」などと評する人がいるが、葬儀委員長、また一国を代表する人が読む弔辞と言うものは、一般の葬儀とは違って、ほとんどの場合官僚などの筆によるものだ。また国を代表する総理が、軽々に人前で涙など見せるものではない。それがそのまま総理の弱点と思われてしまう。粛々と葬儀を行い、弔辞を読めばよい。日本人はもとより、海外の大勢の来賓が出席する中で、葬儀を何事もなく終わらせる委員長の気苦労と言うものは、相当なものだ。個人的な感情に流される余裕などないはずだ。
逆に「友人代表」の弔辞は、その人がいかに故人と親しかったか、影響を受けたか、業績が素晴らしかったかを自分の言葉で語る。涙を流しても誰も批判はしない。むしろ、そこまで故人のことを思っていたのかと、聞いている人を感動させ涙を誘う。菅さんの弔辞もとても良かった。大きな葬儀や集会を仕切った経験がある人はそう多くはないと思う。葬儀委員長、集会の責任者と言うものは、個人の感情に押し流されている余裕はない。いかに粛々と恙なく終わらせるかと言うことに集中しなければならない。安倍さんをどう評価するか、国葬の是非は別として、私個人的には、国葬の厳粛さ、会場を包む凛とした空気が伝わってきて、とても良かったと思っている。
日本では、「はしたない」、「お里が知れる」など行った言葉は、死語になってしまったのだろうか。