白雲去来

蜷川正大の日々是口実

今夜は、オールナイトで。

2010-12-21 10:38:39 | インポート

十二月二十日(月)晴れ。

 師走も二十日となったのに、この暖かさは何だ。昼間はコートなども必要ないほどあたたかかった。昼は、郵便局に事務所などで用事を済ませてから帰宅。忘年会の席順やお店との打ち合わせなどを行い、出かける仕度。

 今日は、新宿のホテルで、国防青年隊の忘年会があり出席の為東京行き。五時五十八分の新宿ラインに乗って六時半過ぎに新宿着。便利になったものだ。大日本一誠会の仲程通也氏は余裕を持って四時半に大和を出たが渋滞していて、着いたのは七時ギリギリ。新宿へは電車が便利になった。

 国防青年隊の渡邊淳司会長とは長いお付き合いをさせて頂いている。淳司会長の兄であった先代の会長、つまり渡邊康司氏とは血盟の同志であった。昭和二十五年生まれの「寅の会」を結成して運動の倍くらい飲んで遊んだ。その彼が突然亡くなったのは平成八年の四月の事。前日、大行社主催のパーティーがあって、彼から二次会に誘われたが、電車の時間が気になってお断りした。彼が倒れて意識不明となったのは、翌日の午後の事であった。

 一週間ほどして亡くなったが、四十五歳と言う若さであった。「死」と言うものが、他人事ではないということを意識した初めての出来事でもあった。そんなことを思い出しながら挨拶をさせて頂いた。

 兄妹の歌謡コーラスで、「お嫁に行けない私」や「よせばいいのに」など数々のヒット曲のあるハニーシックスがゲスト出演。当初は長男の三浦弘さんがリーダーだったが、引退後は三浦京子とハニーシックスとして活動している。メインボーカルの三浦ハルオさんと京子さんやメンバーの方々にステージから散々冷やかされた。というのは、ハニーシックスが、まだレコードも出さずに、クラブやキャバレーなどで演奏している頃、横浜の中税務署前の地下にあった「ジュテーム」というナイトクラブに出演していた。

 私は、そのお店でウエイターとして働いていたのだ。昭和四十八年、私は二十二歳であった。朝の五時にお店が終わると、コックさんにお金を払って、糊を作ってもらい、自宅までビラを貼りながら帰った。当時私は、横浜に本部のある菊水国防隊の青年行動隊員として運動しており、「横浜青年政治研究会」と言う名で勉強会を主宰していた。運動のある時は、ほとんど眠らずに行く、早目にお店に入って、営業時間まで店のソファーで寝て、また朝の五時まで働いた。今だったら、そんなことは体力的に絶対に無理だ。

 ハニーシックスの初めてのレコードは、そのお店のステージで演奏している写真がそのままジャケットとなった。曲は、「今夜はオールナイトで」。ハルオさんや京子さんがステージでそんな思い出話を披露したので少々照れ臭かった。

 当時、「ジュテーム」には、ポス宮崎、ジョージ松下、津江不二男といった往年のハワイアンバンドが、歌謡コーラスバンドを組んで出演していた。伊勢佐木町の一本裏通りにある「ヨコハマセブン」のオーナーの中川さんもバンマスとして店に出ていた。中川さんは、ジャズ・トロンボーン奏者として、「スゥイング・ジャーナル」の人気投票でいつも上位に入っていた人だ。

 そんなことを思い出しているうちに閉会。仲程氏に送って頂き帰宅した。怒涛のような忘年会も後三回となった。

Cimg6645

Cimg6647 ※当時、貼っていたポスター。学純同の大場先生から作って頂いたものだ。当時「一誠」を名乗っていた。


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忘年会に出席。

2010-12-20 11:03:51 | インポート

十二月十九日(日)晴れ。

 朝食の後は、家族全員で自宅の掃除。その後は、子供達にせがまれて東戸塚のダイエーに買い物。様々な売り場を冷やかすが、思うのは、韓国や台湾などに行くよりも、ダイエーなどの方が安いということだ。子供の靴下が十足セットで千円。下着も同じ。靴下もパンツも一枚百円である。韓国の南大門市場や東大門市場などにも行ったことがあるが、これほどは安くなかった。先日、上の子供の眼鏡を作ったが、何と七千五百円である。韓国は眼鏡が安いことで有名だが、この値段では、日本の方が安いのではないか。

 

  その眼鏡屋の近くに背広を作る店があって寄ってみたが、一着、二万円台からある。もちろんオーダーで。聞く所によれば、縫製は中国で、従って出来上がるまで二三週間ほどかかるという。安いことは、我々庶民には良いことだが、果たして、日本の産業は大丈夫なのだろうか。まあ経済の専門家ではないので、良く分からん。

 

  夜は、大行社の相模支部と神奈川支部の合同の忘年会が戸塚の居酒屋で行なわれて、愚妻や松本佳展君らと出席。遅れて志村馨、小森正春の両君が到着。乞われて挨拶を述べた。二時間ほどで解散。二次会に誘われたが、疲れていたのでご辞退した。

 

  帰宅後に、録画しておいた全日本実業団女子駅伝を見たが、途中で寝てしまった。


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 今年も忘年会を開催いたします。

2010-12-20 10:46:22 | インポート

十二月十八日(土)晴れ。

 良い天気なので、家族をたたき起こして朝食。昨日スーパーへ寄ったら様々なキノコが美味そうだったので、五種類ほど買ってきて、キノコ汁にした。おかずはこれだけ。機嫌が悪い時は、おかずは作らん。その後、一時半まで部屋の掃除をさせた。何といっても師走である。

 

 ところで、今年も忘年会を開催いたします。すでに案内状は発送しましたが、もし出席したいという奇特な方がいましたならご一報下さい。

    

   忘年会のご案内

拝啓

 歳末多端の折から、皆様には益々ご健勝の事と存じ上げます。平素より、何かと弊社に対しまして、ご支援と、ご指導を賜り心から厚く御礼を申し上げます。

 扨、師走の折に大変恐縮ですが、左記要領にて忘年会を催したく存じます。時節柄、ご繁忙とは存じますが、何卒、ご来臨の栄を賜りたく、ここに謹んでご案内申し上げます。

 本来ならば、参上し拝眉の上、ご案内申し上げますのが本意ではありますが、失礼の段は、平にご容赦願います。

 末尾となりましたが、皆様のご健勝をご祈念申し上げまして、取り急ぎ、ご案内申し上げます。                敬具

   十二月吉日

           二十一世紀書院 代表 蜷 川 正大

   記

日時 十二月二十二日(水)・午後六時~八時。

場所 中華街・均元楼(地図参照)

   横浜市中区山下町一五二 電話〇四五―六五一―九三四六

会費 一万五千円

問い合せ 〇四五―二三二―八五九〇 二十一世紀書院

各位 

 

 

 

Photo※クリックしますと大きくなります。

 夜は、真面目に仕事。原稿は後二本。頑張らなくては。


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硫黄島訪問の秘話・勉強になりました。

2010-12-18 12:00:59 | インポート

十二月十七日(金)追加のブログ。

 先日、菅直人首相が大東亜戦争の際の激戦地、硫黄島を訪問した。左翼思想の持ち主である菅首相は、当然、先の大戦を「侵略戦争」と規定し、靖国神社への参拝もしていない。その彼がなぜ硫黄島なのか・・・。ご遺骨の収集が終わっていないのは硫黄島だけではない。沖縄だってまだ、完全に遺骨収集は終わっていないし、フイリピンやガダルカナルだってそうだ。まあ行かないより行ったほうがまし、程度の今回の硫黄島行きだが、私の好きなブログに、心打たれるものが掲載されていたので、勝手に貼り付けさせて頂いた。是非ご一読をお願いします。

  

  硫黄島訪問での秘話 

  菅首相は昨日、硫黄島を訪問し遺骨収集作業を視察した。自らも遺骨収集に加わり「遺骨を家族の待つ地に返すのは国の責務。一粒一粒の砂まで確かめ、一人でも多く帰還出来る様に全力を尽くす」と視察後の追悼式で挨拶した。収集前、菅は跪き両手を合わせ合掌し頭を垂れる。しかし、善く善く見れば軍手をした儘で遺骨が埋もれている場所で拝んでいる姿には違和感を覚えた。

 

  人は遺骨の上を歩かない。此れは古来の日本人が厳しく護って来た道である。昭和47年(1972年)、高松宮宣仁殿下が硫黄島へ行かれた際の秘話が有る。

  「壕の中に折り重なっていた遺骨は片付けたが、未だ遺骨が散らばっていた。壕の中に案内された宮様は、ハッと息を呑む気配を御見せになり、やがて地べたに正座し、両手を着き首を垂れ瞑想状態に入られた... 別の壕では靴を脱がれ素足で骨片の散らばる壕内に入って行かれた...」素足で歩かれ視察したのは、唯一高松宮殿下一人だったという。

 

  菅にも素足でやれとは言わない迄も、せめて軍手を脱いで合掌するべきだったろう。遺骨収集を否定するものではないが、集めた遺骨や残る全ての遺骨を千鳥ヶ淵墓苑に埋葬するのだろうか。そうとは思えない。多くの遺骨で手狭となったと言う理由で、千鳥ヶ淵墓苑や靖国神社に代わり「国立戦没者追悼施設」の建立を企てるのではなかろうか。

 

  日本政府が、先の大戦で犠牲となった方々の鎮魂の為に建てた慰霊碑はアジア各国やロシアに点在している。インパール作戦での日本兵の霊を鎮める為に、数年前、インドのレッドヒルの近くに慰霊碑を建立した。しかし、此処を訪れた人は皆愕然とする。施設のコンクリート床は手抜き工事で大きく傾き、薄汚れ、驚くことに肝心な慰霊碑が無いと言うのだ。シベリア抑留の帰還船が出たナホトカにも慰霊碑が在る。亡くなられた方々の霊を慰める為の碑なのだが、一般の人の墓と同じで実に安っぽく「日本人墓地」と書かれたそれは、とても悔し涙を飲んで亡くなった同胞を慰霊するものではない。政府に英霊への尊崇の念が無いから、魂の無い形だけのものになってしまうのだ。数年前に友人らと戦跡慰霊でサイパンを訪れた事が有る。日本政府の建てた慰霊碑は確かに存在してるが、やはり手入れが行き届いておらず寂しい佇まいをしていたのを思い出す。

 

  異国の地や激戦地で斃れた方々は、祖国の為、家族を守る為、アジアの独立の為という大義に殉じたのだ。屍は此処に草生すとも「靖国で会おう」との言葉を残し散って往った魂は今、靖国に還り、滔滔と生き続けているのだ。「国立戦没者追悼施設」より、靖国神社を国の責任で護持し、国民挙って護国の英霊に感謝し、崇敬の誠を捧げる事こそ有要である。

 

 『精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき』(御製)


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「桜田門外ノ変」の映画を見た。

2010-12-18 09:14:27 | インポート

十二月十七日(金)晴れ。

 昨日、「桜田門外ノ変」を読了した。再読であるにもかかわらずとても新鮮だった。犬塚民族革新会議議長は、やはり吉村昭の「ポースマツの旗」を再読中との事。朝食後、どうしても先日封切られた、映画「桜田門外ノ変」を見たくて、パソコンで検索をしたら、港南台の映画館で今日まで上映中だったので、すっ飛んで見に行った。朝一番の上映のせいかお客は私を含めて十人ほどしかいなかった。

 

 映画館に来たのは久しぶりの事である。劇場も小さいし、スクーリンも劇場にあわせて小ぶりである。大型テレビで、音響も良くなったもので見るのとさほど変らない。これではどんどん映画が斜陽になるわけだと思った。年のせいでトイレが近い。自宅だったら一時停止のボタンを押してトイレに行くのだが、映画館ではそうも行かない。我慢して見ていたので、後半は落ち着かなかった。

 

 映画の感想を言えば、良い映画だった。これはまさしく原作を先に読んでから見るべき映画だと思った。私達は、「桜田門外ノ変」と言うと、「知っている」、という思い込みがある。しかし、その実、細部にわたってはほとんどと言ってよいほど知らないのではないか。例えば、井伊直弼を襲撃した人たちの名前を全て知り。その人たちが襲撃後にどんな人生を歩んだのか、など。

 その井伊直弼暗殺から、わずか八年の後に明治維新が達せられるのである。水戸藩は、維新に貢献したにも関わらず、安政の大獄、井伊直弼襲撃、天狗党の乱、坂下門外の変などで、優秀な人たちの殆どが亡くなってしまい、維新後の政府に重用された人が少なかった。維新前に人と藩とのエネルギーを使い果たしてしまったといっても過言ではない。

 

 そういった歴史をおさらいしてから、この映画を見ると、思い入れが違ってくる。知っているようで、知らないことが多いのに、知っていると思い込んでしまう。もう一度、初心に帰って読書をしようと思った次第。

 

 夜は、頂き物の、京都産の「鴨ロース」で鴨鍋をした。余り余計なものを入れず、豆腐に白滝、油揚、白ネギのみで鴨を味わった。映画の余韻を楽しみつつ酒は「島美人」のお湯割りで。


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