十二月二十日(月)晴れ。
師走も二十日となったのに、この暖かさは何だ。昼間はコートなども必要ないほどあたたかかった。昼は、郵便局に事務所などで用事を済ませてから帰宅。忘年会の席順やお店との打ち合わせなどを行い、出かける仕度。
今日は、新宿のホテルで、国防青年隊の忘年会があり出席の為東京行き。五時五十八分の新宿ラインに乗って六時半過ぎに新宿着。便利になったものだ。大日本一誠会の仲程通也氏は余裕を持って四時半に大和を出たが渋滞していて、着いたのは七時ギリギリ。新宿へは電車が便利になった。
国防青年隊の渡邊淳司会長とは長いお付き合いをさせて頂いている。淳司会長の兄であった先代の会長、つまり渡邊康司氏とは血盟の同志であった。昭和二十五年生まれの「寅の会」を結成して運動の倍くらい飲んで遊んだ。その彼が突然亡くなったのは平成八年の四月の事。前日、大行社主催のパーティーがあって、彼から二次会に誘われたが、電車の時間が気になってお断りした。彼が倒れて意識不明となったのは、翌日の午後の事であった。
一週間ほどして亡くなったが、四十五歳と言う若さであった。「死」と言うものが、他人事ではないということを意識した初めての出来事でもあった。そんなことを思い出しながら挨拶をさせて頂いた。
兄妹の歌謡コーラスで、「お嫁に行けない私」や「よせばいいのに」など数々のヒット曲のあるハニーシックスがゲスト出演。当初は長男の三浦弘さんがリーダーだったが、引退後は三浦京子とハニーシックスとして活動している。メインボーカルの三浦ハルオさんと京子さんやメンバーの方々にステージから散々冷やかされた。というのは、ハニーシックスが、まだレコードも出さずに、クラブやキャバレーなどで演奏している頃、横浜の中税務署前の地下にあった「ジュテーム」というナイトクラブに出演していた。
私は、そのお店でウエイターとして働いていたのだ。昭和四十八年、私は二十二歳であった。朝の五時にお店が終わると、コックさんにお金を払って、糊を作ってもらい、自宅までビラを貼りながら帰った。当時私は、横浜に本部のある菊水国防隊の青年行動隊員として運動しており、「横浜青年政治研究会」と言う名で勉強会を主宰していた。運動のある時は、ほとんど眠らずに行く、早目にお店に入って、営業時間まで店のソファーで寝て、また朝の五時まで働いた。今だったら、そんなことは体力的に絶対に無理だ。
ハニーシックスの初めてのレコードは、そのお店のステージで演奏している写真がそのままジャケットとなった。曲は、「今夜はオールナイトで」。ハルオさんや京子さんがステージでそんな思い出話を披露したので少々照れ臭かった。
当時、「ジュテーム」には、ポス宮崎、ジョージ松下、津江不二男といった往年のハワイアンバンドが、歌謡コーラスバンドを組んで出演していた。伊勢佐木町の一本裏通りにある「ヨコハマセブン」のオーナーの中川さんもバンマスとして店に出ていた。中川さんは、ジャズ・トロンボーン奏者として、「スゥイング・ジャーナル」の人気投票でいつも上位に入っていた人だ。
そんなことを思い出しているうちに閉会。仲程氏に送って頂き帰宅した。怒涛のような忘年会も後三回となった。