五月二十日(月)雨。
朝から市県民税の申告書の書き方を間違えたので、市の特別徴収センターに訂正しに行った。その場所は、市役所にあるのかと思ったら、何と関内駅近くの馬車道のほぼ中央、しゃぶしゃぶ屋の入っているビルの中にあった。五分ほどで訂正が終わり、久しぶりに小雨の中の馬車道を歩いてみた。横浜に住んでいても、用事がなければほとんど馬車道などには来ない。
馬車道は港の方向から、関内駅、伊勢佐木町方面へ一方通行である。良く考えると、その昔は、伊勢佐木町の入口、つまり吉田橋のたもとに関所があって、不逞の浪人を取り締まった。そこを通って港方向の外人の居留地へ行く。従って、本当なら、港方向に一方通行であるべきなのだが。ちなみに「関内」という地名は、吉田橋にあった関所の内側にある町なので、「関所の内側」で通称「関内」と呼ばれている。反対の伊勢佐木町方面は、「関外」と呼ばれたが、今はほとんど使われることがない。「関内」は通称で、駅名にはなっているが、住所表記にはない。
その昔、馬車道の入口(関内駅方向)に、ハンバーガーの専門店の「珈琲屋」があった。トースターもオレンジを絞る道具も、電子レンジも、その頃は珍しい輸入品を揃えていた。メニューは、ハンバーガーとホツトドックにトースト程度だったが、おしゃれな店だった。まだ巷にマクドナルドなどのお店が出来る前のことだ。その隣には、お稲荷さんの「泉平」があった。「泉平」は、場所を少しずらして今でもあるが、店頭販売のみとなっている。
映画館も、東宝会館があって、封切りで洋画と日本の映画を上映していた。その斜め前、現在の市民ホールのあった場所には、「横宝」という映画館があり、ここでは映画やライブも行っていた。中学一年生の時に、そこで寺内タケシとブルージンズやクレイジーキャッツの公演を見たことがある。東宝会館の前には、今では珍しい純喫茶の「ウイーン」が健在である。
その喫茶店の窓際に座っていると、なぜか「学生街の喫茶店」の歌が頭の中でリフレーンする。様々な人と、様々な思い出がある。私が十代のころから営業しているから、もう馬車道では老舗の部類に入るだろう。その隣のビルの地下に、昭和五十年から五年ほど私が勤めていた「パブリック冠」というお店があった。野村先生や阿部勉さんなど、民族派の人たちが常連で、まあその分、一般のお客さんの足が遠のいたが・・・。もう三十七年も前のことだ。
野村先生は昭和五十二年三月三日の経団連撃事件の前夜、同志と共に横浜のニューグランド・ホテルに泊まった。そのことが「人間ドキュメント野村秋介」(山平重樹著・二十一世紀書院刊)に書いてある。
「私はしばらくして三人(伊藤好雄・森田忠明・西尾俊一)と別れ、横浜の裏町を一人でさまよった。そして横浜民族派の拠点の観を呈しているパプリック『冠』に足を向けた。蜷川君に逢いたかったのである。しかし残念にも『冠』はシャッターを下ろした後だった。」
馬車道の界隈も随分と様変わりしていたが、思い出が鮮明な分、セピア色の街並みが甦ってくる。小雨に煙る馬車道を後にして自宅に戻った。