白雲去来

蜷川正大の日々是口実

マイクロフォンは米英的だって。

2015-05-18 13:14:23 | 日記
五月十三日(水)晴れ。

台風一過、真夏日となった。いつも思うが、朝起きて天気が良いだけで何か幸せな気持ちになる。朝食は、この時期に?とは思ったが、サンマの干物と清風楼の焼売に春キャベツの味噌汁。いいなぁー。何が良いかって・・・。天気も良いし、朝食も美味しいし、のんびりと朝の時間を堪能している。これで懐具合が良ければ言うことなし、なのだがそれは贅沢というもの。大体、ロクに仕事もしていないのに、余分な金など入る訳もない。霞を食って健康ならば多少のことは我慢しなければ、お天道様に叱られる。

戦前、戦後にエノケンと共に喜劇界で一世を風靡したコメディアンに古川緑破(ロツパ)がいる。この人は、食にこだわりがあって、食に関する本も随分と出している。その中で、先日、アマゾンで「ロッパの悲食記」(ちくま文庫)を買った。昭和十九年の正月から暮までの一年の「食日記」なのだが、これが中々面白い。それによれば、昭和十九年の正月の時点で、日本は物資が欠乏していた。食べ物だけではなく、ロツパが愛用していた日記帳でさへ姿を消す。一月二十三日の日記では「朝食に珍しく豆腐の配給あり。豆腐の味噌汁、それを喜ぶ。こういう世の中になると、喜ぶことが多い。有楽座、楽屋で、突如、部屋の女の子が、電熱器を外して、隠した。電気会社の見回り来たと思って、あわてたもの。実は、警察の人なりし由」。何事かと思えば、電熱器は使用を禁じられていたらしい。

また九月三日の日記には、当時の日本の官憲の有様が描かれていて、笑うに笑えない。「東横劇場初日。一回終って、検閲の警視庁役人、何とかかんとか難癖をつけるので、腹立つ。尚、今回より警視庁命令で、マイクロフォン使用を禁ぜられる。その理由、マイクは米英的だから、いかんというのだ。呆れて物が言えない。が、逆らうわけにも行かないので、マイクを引っ込めた」。敗戦の原因は、こうした当時の役人や官憲、政治家たちの体質や「空気」にあったのではないかと思った次第。

夕方、友人より思いがけずに「黒霧島」のパックが六本も届く。その友人氏、私と会うたびに「蜷川さん。飲み過ぎに注意して下さい。少しは酒を控えた方がいいですよ」と忠告してくれる。その友人から六本もか・・・。嬉しいが気をつけて飲むことにしよう。

夜は、折角、好物を頂いたからと気合を入れて肴を作った。青森の実家から送って頂いたアスパラガスをフライにしたり、小エビとマッシュルームをアヒージョに。さらに豚のナンコツを揚げた。島ラッキョウもある。考えてみたらほとんど貰い物だ。酒肆、酔狂亭の開店である。景色には頭山満翁の「人生感意気」の書を下げた。

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名前だけ立派な飲み会。

2015-05-18 12:34:15 | 日記
五月十二日(火)曇り。

台風が近づいているとかで、午後になってから風が強くなった。昼に友人が来訪して、本格的なカレーとナンを差し入れてくれた。我が家で、カレーの昼食。

夜は、名前だけ真面目な「蜷川政経懇」を関内の「HIRO」にて開催。時間前に盟友と待ち合わせて、久しぶりに「写楽」で軽く鮨をつまみに飲む。自宅のことや個人的なことの相談に乗って貰い、感謝する。

珍しく「HIRO」に大勢が集い賑やかなり。二時間ほど飲んで解散。サリーの店へでも転戦しようと思ったら、閉まっていた。恐らく夜半に襲来すると言う台風を敬遠したのかもしれない。遠方の友人も、電車が心配とのことで帰り、私も友人に送って頂き帰宅。何とまだ九時半にもなっていなかった。飲み足らず、一時間ほど独酌。夜半より強風我が家を揺らす。

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先生のモロッコでの三句。

2015-05-18 11:36:20 | 日記
五月十一日(月)晴れ。

朝食は、アコウ鯛のかす漬けに納豆、あさりの味噌汁。昨日、スーパーで見つけた「あさり」がとても大粒で新鮮だったので、今朝の朝食が楽しみだった。あさりの味噌汁を作る時は、すべての食材が整ってから最後に作る。それは煮てしまうとあさりが固くなってしまい、味を損ねるからである。殻が開いた時点で火を止めて味噌を入れる。こうするとあさりがふあっとして食感がとてもいい。そうそう、あさりは一晩置く場合は冷蔵庫の野菜庫がいいとは、食のエッセイストの平松洋子さんの受け売り。

機関誌「燃えよ祖国」の第二一二号を発送した。いつも思うのだが新しい機関誌が出来るのが嬉しい。もう二十年も同じことをしているのだが、その度に新鮮な感動がある。最新号の表紙の写真は野村先生との最期の旅となったモロッコはカサブランカでのものである。靄の立ち込める海辺で岸壁に腰をかけた写真を形見として親しい人たちに贈った。
その場所で詠んだ句が、

モロッコの落日を見て夏終わる
モロッコの波轟いていわし雲
モロッコの波涛激しき晩夏光

その旅から今年で二十二年が過ぎた。しかし当たり前のように先生の時間は止まったままである。秋の群青忌は二十三回忌となる。

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母の命日で、お墓参り。

2015-05-18 11:10:18 | 日記
五月十日(日)晴れ。

今日は、平成十三年に八十四歳で亡くなった私の母の命日である。「母の日」が命日とは、忘れることが無くて良い。朝食の後に家族でお墓参りに出かけた。連休明けの日曜日のせいか東名高速はガラガラである。海老名のSAまで何と二十分程度で着いてしまった。「特製メロンパン」の販売が十一時ということで、それまで家族でお茶。

正午前にお寺に着いた。まずはご住職にご挨拶を済ませてから野村先生のお墓へ。先生のお墓の横には五重塔が山の木々を背景に凛として建っている。正に万緑叢中紅一点の感あり。今年は、没後二十二年、仏教では二十三回忌となる。先生の墓前で皇国の安泰と今年の群青忌の報告をする。その後、両親のお墓へ。お墓をきれいにしてから家族で手を合わせた。

自宅に戻れば、沖縄の金城薫氏から大好きな「島ラッキョウ」がどっさり届いていた。金城氏は、その昔野村先生の秘書兼運転手をしていた。その後郷里の沖縄に戻って運転代行の会社を経営している。寡黙で芯のしっかりしている人だ。今年の群青忌では会えるだろうか。

夜はおとなしく、酔狂亭で独酌。

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「厚顔無恥」をロシア語に訳して届けてやりたい。

2015-05-17 12:40:09 | 日記
五月九日(土)晴れ。

久しぶりに子供たちを呼んで、「柱の傷」をやってみた。最後に傷をつけたのは二人がそれぞれ十四歳の時。三年前と五年前のこと。計ってみたら何と、二人とも身長が伸びていない。十四歳の時のままだ。正直言って、ちょっとショックだったが二人曰く、女性は大体、中学生ぐらいで成長が止まるのが普通とのこと。まあお陰様で二人とも百六十㎝はあるので成長が止まっても心配はないが、何か気勢をそがれたようでちょっとがっかりした。もう柱に傷をつけることはないのか・・・。

今日は、一日機関誌の編集と印刷に追われた。新しい機関誌が出来上がると嬉しい。先月、伝統ある民族派の機関紙「国民新聞」が休刊となった。企業や特定のスポンサーの支援がないこの時代に、機関誌を発行し続けるのは、色々な意味で大変である。しかし運動家である以上、何も大変なのは機関誌を発行することだけではない。街宣車を維持し、街宣を行う事だって大変である。あくまで個人の意思として行っている以上、頑張るしかない。

報道ではロシアが、対独戦勝七十年を記念する式典を行ったという。その中でプーチンが「ナチズムと日本の軍国主義戦った国々の首脳に特に感謝する」と語ったそうだが、これは正にブラック・ジョークなんだろうと思う。本当に笑わせてくれるではないか。お前だけには言われたくない。あらためて言うまでもないが「日ソ不可侵条約」を一方的に破って、火事場泥棒のような行為を行ったのは旧ソ連ではないか。

軍国主義に反対する軍事パレードって一体何。ナチズムや軍国主義よりももっと人民を数の上でも苦しめたのはコミュニズムだったのではないか。「厚顔無恥」という言葉をロシア語に訳して、プーチンに届けてやりたいものだ。

愚妻の里からアスパラガスと山ウドが届いた。アスパラガスは好きで様々な料理方で食べるが、ウドはあまり好きではない。しかし折角の義母からの心遣いなので天ぷらにでもするか。そんな訳で、夜はアスパラをアヒージョやフライにして酒の肴にした。※『燃えよ祖国』の最新号です。見本誌(千円)をお送り致します。snforever@oroof.ocn.ne.jp までご連絡下さい。

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