白雲去来

蜷川正大の日々是口実

普通のおばさんになっていた浅利純子を見た。

2015-05-16 14:51:15 | 日記
五月八日(金)晴れ。

何気なしにテレビを見ていたら、何と元マラソンランナーの浅利純子が出ていた。最初は、どこの生活やつれしたおばさん(失礼)が出ているのかと思って見ていたら浅利純子だった。三人の男の子の母となって、子育てに奮闘している。何でも、飽きっぽい性格の小学生学生の長男に、自信を持たせるために、母が現役のマラソンランナーであった頃に世界陸上で優勝した際に貰った金メダルを見せたい。しかし歳月の流れでその金メダルが変色してしまった。何とか元の輝きに戻して、子供たちに母が頑張っていたことを伝えたい。というような内容だったと思う。その変色した金メダルを、職人の手によってきれいにして浅利に渡すと言うもので、思わず見入ってしまった。彼女の現役時代の栄光の足跡は、ウイキで見ると。

浅利は、ダイハツに所属していた時代に、1993年1月31日 大阪国際女子マラソン初優勝。2時間26分26秒(2位の安部友恵とは1秒差)。当時日本女子最高タイ記録。レースの終盤、長居陸上競技場の手前まで安部と二人で激しいデッドヒートを繰り広げたが、安部が競技場へ入る直前、先導車につられてコースを大回りするミスにより、浅利がタナボタで先頭に立つ。残り100mで安部が追い付くも、その後浅利がスパートしてゴールとなった。

1993年8月15日、世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン優勝。2時間30分03秒(3位は安部友恵で銅メダル獲得、松野明美は11位)。当時日本女子陸上選手としての金メダル獲得は、オリンピックも含めて初の快挙である。レース後半の33Km付近で一度は先頭に立ったポルトガルのマヌエラ・マシャド(2位)を、浅利が36kmの下り坂で逆転、その後は独走してのフィニッシュとなった。

1994年1月30日、大阪国際女子マラソン3位。2時間26分10秒(優勝は1秒差で当時日本女子最高記録達成の安部友恵、2位は安部と同タイムの藤村信子)。長居第2陸上競技場へは浅利・安部・藤村の三人がほぼ同時に入ったが、ゴールライン100m手前のホームストレートで安部がスパートをかけると浅利はついていけず、そして藤村にもわずかに追い越されてしまった。

1995年11月19日、東京国際女子マラソン優勝。と輝かしい記録を残した名ランナーである。その後、2001年1月、現役引退を表明。昨年の大阪国際が浅利の競技生活最後のレースとなった。その後ダイハツ陸上部のコーチへ就任となる。005年10月、鈴木監督が60歳の定年退職を機に、浅利自身もダイハツを退社となる。2006年3月 - チームミズノアスレティックに加入。同年3月に結婚。2007年3月、37歳の高齢出産だったが無事長男を儲ける。同年8月25日、大阪世界陸上開会式に、谷口浩美・鈴木博美と共に世界陸上の歴代優勝者としてゲスト出演した。2007年11月、故郷の秋田県鹿角市で「浅利純子杯争奪 第1回鹿角駅伝」が開催、浅利もゲストランナーで参加。

陸上ファンの私としては、上記のマラソンのビデオはほとんど持っている。今度ゆっくり浅利純子の軌跡を見てみるつもり。浅利とライバルだつた旭化成の安部友恵はどうしているのだろうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍しく二日酔い。

2015-05-14 17:49:24 | 日記
五月七日(木)晴れ。

昨夜の酒が残りおり起きられず。どんなに良い酒を楽しく飲んだとしても、翌日に二日酔いでは、何のための酒だったのかと、惨たり。それでも目が覚めると腹が減る。朝食を作る気がせず、近くに出来たホットモットとかいう弁当屋の「特のり弁当」を買いに行く。全く情緒もくそもないが、自業自得か。

お天道様やカタギの衆に、スマン、スマン、オスマンサンコンと三回繰り返してから、風呂に入って酒を抜いた。午後から事務所へ。片づけをしていたら、少しばかり金の余裕があった随分前に手に入れた黒龍会の内田良平先生の書の「まくり」(注・表装していないもの)が出てきた。額縁屋に持って行かなければと思うのだが、何しろ額装するのには、エッと言うほどお金がかかる。まあそのうちにと思って、書棚に仕舞った。

考えてみると、随分と「書」を始末した。いや始末と言うよりも生活費と酒代に換えた、と言う方が正しいかもしれない。野村先生では、現在残っているのは代表句の色紙と選挙の折に書いて頂いた三部作ぐらいか。その他は頭山満先生の物は、割合と良いものを五、六点持っている。これらの物もいずれ酒代になってしまうのだが、浪人の身としては、胸を張って笑い飛ばすほかはない。

暗くなれば懲りずに魚屋を覘く。無い。仕方がないので松原商店街に行くが、お目当てのカツオがあったが、まだションベン臭いガキの風情だ。やはりカツオは年増でなければ。結局やめてマグロにした。しかしはずれ・・・。ついていない。おまけに「黒霧島」もきれた。仕方がないので誕生日に頂いた「赤霧島」の封を切った。毎日、つまらないことで一喜一憂している。こりゃダメだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サリーズバーのパーティー。

2015-05-13 10:05:11 | 日記
五月六日(水)晴れ。

良い天気が続いている。朝食後は家族総出で自宅の掃除と衣替え。居間に敷いていたカーペットを夏の茣蓙に換えたり、洋服を納戸に仕舞ったりと午後まで大汗をかいた。

今日は、毎年恒例のサリーズバーのソウル・ダンスパーティーが中華街のローズホテルにて行われるので愚妻と共に出席。毎年、参加人数が増えて行く。今日も会場となったホールは二百人を超える人たちで満席状態。来ている人たちはほとんどが顔見知り。私は、ダンスと言う柄ではないので各テーブルの知己に挨拶しながら、乾杯の嵐。まるで同窓会のようだ。しばらくして岐阜の怪人、細川嘉彦先生、作家の山平重樹先生、元レーサーで「黒い稲妻」の異名を持っていた桑島正美氏ら合流。我々の世代では桑島氏の名前は生沢徹氏と共に懐かしい。

元ナポレオン党の峰夫さんら諸先輩にもご挨拶。約三時間、エディ蕃やマモルマヌーといった元ゴールデンカップスのメンバーや黒沢博、元シャープフォークスのトミーさんと言った横浜のミュージシャンも元気そうで嬉しかった。キャシー中島、勝野洋夫妻、浅野忠信さんのお母さんのジュンコさんや、その昔のイイ女が沢山来ていた。その他、その昔、横浜でブイブイやっていた同世代のおとっつぁんやおっかさんたちも元気に踊っていた。私は、野毛の「むさし」のオヤジや四十五年も前のガールフレンドたちと勝手に盛り上がっていた。

終了後に、山、濱の両氏やカメ&アコちゃん、ミッチー橋本さんたちと山下町のラッキーの店に転戦したが、ほとんど飲めずに帰宅。久しぶりの大破・轟沈。
※左より、山平重樹氏、細川嘉彦氏、蜷川、桑島正美氏。ローズホテルにて。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知のカツオをナメたらいかんぜよ。

2015-05-12 10:23:19 | 日記
五月五日(火)子供の日。

柱の傷はおととしの・・・。我が家の居間の柱にも子供の成長の「傷」がある。二人の子供は、今の家で生まれたので「柱の傷」も成長した分だけの数がある。二人とも一歳が最初で十四歳が最後。その後しばらく「傷」をつけていない。久しぶりに計ってみるか。

一日、機関誌の編集作業。五時過ぎには終了して「そごう」まで車を走らせた。もちろんお目当ては「カツオ」である。私の「食」のスクラップの中の「カツオ」に関する好きな逸話。

そばや酒からカボチャのような野菜まで、江戸っ子は、初物に目がなかった。なかでも「宵越しの銭は持たない」のが自慢の彼らが、「女房を質に入れても」と熱狂したのが初鰹(はつがつお)だ。文化九(一八一二)年、江戸日本橋の魚河岸に到着した初鰹には、こんな逸話がある。魚河岸から当時の人気役者、七代目市川団十郎と四代目沢村宗十郎に一本ずつ贈られた。それを知ったライバルの上方役者、三代目中村歌右衛門は残りの一本を三両、今の金額で二十七万円も奮発して手に入れ、団十郎より一足早く一座の者に振る舞った。
先を越された団十郎はよほどくやしかったのか、一生鰹を食わないと誓ったそうだ。演劇評論家の渡辺保さんはいう。「初鰹は『初』という字を買うのである。江戸っ子の、だれにもひけをとりたくないという意地っ張り、負けず嫌いな気質がそこにはあらわれている」(『芝居の食卓』柴田書店)(三年前の一月六日の「産経抄」)

しかしながら、カツオは「初」物よりも「戻りカツオ」と呼ばれる時期の物が格段と美味しい。以前、高知に大行社の西澤多賀男先生を訪ねた折に「鯨のすきやき」をご馳走になった。美味しさを通り越して、その贅沢さに恐れ入ったが、その折に出されたのがカツオの刺身。この刺身が、私の常識からかけ離れたもので驚いた。何しろ、分厚いのだ。西澤先生曰く「高知のカツオの切り方は、朴歯(注・朴の木で厚く作った足駄の歯)ぐらいの厚さで切るんだよ」。それを生のニンニクのスライスと一緒に食べる。以来、料理屋や寿司屋に行って、出されたカツオがペラペラだと、「お前ねェ-高知ではねェ-」。と能書きを垂れるようになった。倍の金を取られるのは癪だが、西澤先生の顔が浮かんでここは譲れない。

今日のカツオは、この時期では珍しく、六ポウ、七ケン程度の物にあたった。おまんら、なめたらイカンぜよ。と独りごちて、ふふふと食した。快酔なり。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二十七年前の連休。

2015-05-12 09:49:16 | 日記
五月四日(月)晴れ。

確か城山三郎の本に「毎日が日曜日」というものがあった。まったくゴールデンウイークとかで、今日が何日の何曜日かがピンとこない。それでなくとも浪人の身で、非生産的な日々をもう何年も過ごしているので余計に日にちの感覚がない。

今日は、横浜在住の同志の方と一献会を予定していたが、急な用事が入って東京行き。赤羽で友人と会いヒソヒソ話を。その後、上野に転戦してから帰宅。我が家は、轍鮒の急である。

平成元年四月二十九日(土)(「独醒記」・獄中日記より)
昨日の網走の最高気温は何と零度。最低ではなく、最高気温なのだから私の居るところが、日本の北の果てであることを実感する。ビート畑で除雪をしていると網走名物の「能取湖おろし」の寒風が容赦なく体温を奪って行く。農耕本隊二十名の誰もがアノラックのフードを頭からすっぽり被って作業をしている。その姿が痛々しく映る。
あと二日もすれば五月だというのに、毎朝氷が張るこの網走の寒さは、我々から軽口と笑顔を奪うには充分であり、正に春とは名のみの寒さを実感している。一日中除雪の作業をしていたため、精も根も尽き果てて、ノルマの読書をしようと思っても細かい活字を追うのがとても億劫である。

娑婆では今日からゴールデンウイークの始まり。夜のニュースでは、この連休を利用して海外へ脱出する人で混雑する成田空港を映していた。当然のように我々懲役はそんな娑婆の喧騒など全く関係なく、合計七日の免業をただ腐ったマグロのようにゴロゴロして過ごすだけ。刑務所側も、そんな我々を可哀相と思ったのか、将棋大会、カラオケ大会、ビデオ観賞といった低予算の行事を用意しているそうだ。娑婆にいるのと違って、休みといっても出かけることもなく、静湖寮と名付けられた、泊まり込みの農場で、三度の食事の時以外はただゴロゴロしているのだから、これ以上の休養はないのかもしれない。もうすぐ五月だというのに、相変わらず朝は氷の張る寒さである。

昨年の九月にこの農場に転業になって以来、読書の量が半分になってしまった。十月一日から今年の四月三十日までの七ヵ月間に読んだ本の合計が百十一冊。そのうち私本が三十六冊に、いわゆる「官本」といって刑務所に備え付けの本が七十七冊。一ヵ月平均すると十六・一冊の読書をしたことになる。しかし、その百十一冊のほとんどが小説のたぐいで、本来学ばなければならない思想、宗教、哲学、評論といったものが全く読めずにいる。本所の独房の時と違って、ここの農場には二十五名の者が一同に生活しており、従ってプライバシーなどはほとんどないに等しい。更に囲碁、将棋にテレビといった誘惑とも闘わなくてはならない。だからこそこの農場にいる間は、固い本は避けて小説を徹底的に読もうと決めた。もちろん徹底的といっても月にたかが十五冊程度の量は、威張って言うほどのものではないが、ここの重労働と余暇時間では、正直言って良としなければならない。そのたかがと思った小説や娯楽書の中にも、当たり前だが様々な価値観や人生観があることを教えられた。こういった楽しみとして読んでいる本が、気が付けば「たしなみ」となっていることがある。読書とは単に活字を読むのではなく、言葉を読み、そこに書かれている志を読むことにある。とは恩師の口癖だった。

もう二十七年も前の私の「独醒記」と題した獄中日記である。だらしのない日々の中で、当時のことを思い出すために時折、日記を読み返すことがある。あーあだらくしているなぁー最近は。自分に喝だ!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする