白雲去来

蜷川正大の日々是口実

人渾身の悩みあり。

2017-02-22 11:46:31 | 日記
二月二十一日(火)曇り。

私の友人のご母堂は百七歳という高齢である。今月の初めに血圧が極端に下がり危険な状態になったが、何とか持ち直したそうだ。友人は、私より一つ下の独身。母一人子一人での、いわゆる「老々介護」をしていると、自嘲気味に話していた。

もう一人の後輩のご母堂は八十二歳。認知症で、仕事の合間に、姉と交代で食事の世話をしていると言う。私の母は、八十二歳の時に脳梗塞で倒れ、意識の全くないままに二年半寝たきりの後に亡くなった。私の場合は、父が母の介護を付ききりでしてくれたおかげで、生活に支障はなかったが、もし父がいなかったならば、大変な労力を強いられたのに違いあるまい。もちろん実母のことだから、何を置いても看護するのが当然なのだが、どこかの施設にお世話にならなくてはならなかったと思う。今更ながら、父の介護に頭が下がる。その父も母が亡くなってから、三年後に亡くなった。

還暦の子供を親が祝う長寿国。とは良く言ったものだ。賛否はあるだろうが、私は、安楽死を認めて貰いたいと思っている。意識もなく、快復する見込みも無かったら、安楽死をさせて頂きたいものだ。元気な時に本人と家族の同意を取っておく。嫌な人は、止めればよい。寝たきりの病人を抱えた家族が、どれ程の経済的、精神的な負担を負うのか。それを考えたら、治る見込みのないものなら、医者の手で安らかに眠らせてもらいたいと思っている。

また、私の長年の同志が、今癌と戦っている。二年ほど前に胃癌の手術を行い、経過も良く、全快したと思っていたら、リンパに転移しているという診断が出た。まだ私よりも二つも若い。健康診断は大切であるが、毎年行っていても、癌になる人もいる。もうそれは運命としか言いようがない。それでも今は、医学が発達しているので、助かる場合も多いと言うが、その戦いの結果は、本人次第である。

私の友人で、沢木耕太郎さんの「一瞬の夏」や、アリスの歌「チャンピョン」のモデルとして有名なカシアス内藤さんは、数年前に喉頭癌と診断された。現在も抗がん剤の投与をしているが、治療の過程で、新聞社の取材にこう答えた。「今度の(癌との)戦いは、勝たなくてもいい。ドローでいいんだ」と。その闘争心が内藤さんを支えているのだろうと思う。

五・一五事件の三上卓先生の代表句に、野火赤く人渾身の悩みあり。というものがある。渾身の悩みと対峙しながら生きている友らがいる。とても安易に「頑張って」などとは言えない。

夜は、大人しく、京急の井土ヶ谷駅前のマルエツ」と言うスーパーで買った焼き鳥(そこそこ美味しかった)を肴に、酔狂亭で独酌。

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関内と関外。

2017-02-21 11:40:17 | 日記
二月二十日(月)曇り。時々雨。

風が強い。わが陋屋が風に怒鳴られているようで、夜半に目が覚めてしまった。朝のニュースでは、何でも「春二番」とか。午後一番で、打ち合わせがあり、運動がてら歩いて行こうかとも思ったが、風が強く、また空を見上げると、今にも泣き出しそうだ。あきらめて車で出かけた。打ち合わせは、あっという間に終わり、事務所に行こうかとも思ったが、家にいる子供たちに連絡して、昼食を共にした。

場所は、伊勢佐木町の入口にあるインド料理の「モハン」。ここのナンが大好きである。私は、今日のランチの「バターチキン」。伊勢佐木町は、今は高速道路になっている、その上の橋を渡ると関内。伊勢佐木町側は関外と言った。その昔、尊皇攘夷の浪士を取り締まるために、外国人居留地のあった関内に入る橋に関所を設けて取り締まった。関所の中に入るから関内。関所の外だから関外と呼ばれた。横浜には、関内、関外という住所表記はなく、所謂通称である。今、関内と言うと、JRの関内駅と、駅から海までの地域を言う。まあ普通「関内に行く」と言えば、単純に、飲み屋に行くことと同義語となっている。

横浜生まれの作家である獅子文六の『父の乳』という小説に、彼の父のお店があった場所が関内の海岸通りの一つ手前の通称水町通り(ウォーター・ストリート)にあったと書いている。明治の頃のヨコハマの関内の風景が、良く描かれている。そう言えば、横浜のマリンタワーの一階に「水町バー」というオシャレなお店があって、何度か行ったことがある。

食後の暇つぶしに、伊勢佐木町の書店、有隣堂へ行く。義勇軍の針谷大輔議長から勧められた、ピーター・ナバロの『米中もし戦わば』にしようかとも思ったが、『失敗の本質ー日本軍の組織論的研究』(中公文庫)が目に入ったので、購入した。何でも、この本は小池東京都知事の「座右の書」とか。楽しみである。

金正男が空港で襲われる映像を見た。今は、何処の空港でも防犯ビデオが完備されていて、そう言うことを知ったうえでああいうことを行うのだから、ど素人かプロなのか、判断がつかない。しかし、襲撃犯のおんなが、「ドッキリテレビだと思った」と言うのは、信用できない。それならば、なぜホテルの部屋で髪を切って変装しようと思ったのか・・・。利用されたのかもしれないが、何かを知っていたのには違いあるまい。そう言えば、大韓航空爆破事件の金賢姫も日本人蜂谷真由美を名乗り偽造のパスポートを持っていた。

夜は、酔狂亭で、「藁焼きのカツオ」を肴に独酌。黒霧よ今夜も有難う。

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忘れ得ぬ人たち-墓参。

2017-02-21 08:07:07 | 日記
二月十九日(日)晴れ。

良い天気である。午前中は自宅の片付け。十一時過ぎに、お墓参りに行く、仲間に迎えに来て頂く。今日は、若くして亡くなられた二人の方の墓参に、それぞれ共通の友人たちが集まる。

まず平成の十年に五十歳で亡くなられた、私の中学の先輩でもある山崎邦雄さんのお墓に。もう四十年近くも前のことだと思う。伊勢佐木町はオデオンのビルの前の雑居ビルの二階にスタンド・ロック(通称・ロック)という、今で言うとショットバー、その昔は、カクテルコーナーがあった。理容師だった山崎さんが、突然トラバーユして、スタンドロックの店長になった。そこでアルバイトをしていたのが、水原弘雅氏やランドマークのロイヤルパークを先年退職した山崎雅夫氏、そして現在横浜の大手設備会社で取締役をしているT氏などである。

その店の裏で、炉端焼き「花笠」を経営していたのが、尼野保氏のご母堂。保氏はそのお店を手伝っていた。勿論私もロックの常連だった。後輩の板垣哲雄さんや針谷大輔さんなども通った。後で知ったのだが、藤棚の「やまと」のご夫婦も結婚前に良くロックに行っていたそうだ。世間は狭い。山崎さんが、ロックをやめて「みかんの移動販売」や他の仕事をしていた時に、一緒に働いていたのが、統一戦線義勇軍の清和崇氏。皆さん、様々な山崎さんとのお付き合いの中で、もう十年以上も墓参を続けている。

戸塚の旧ドリームランドの跡地に整備された横浜市の墓地。三日前がご命日と言うこともあり、墓前には花が添えてあった。皆で、花を捧げ、ビールで献杯し山崎さんを偲んだ。その後に、平成十八年の三月四日に、東証立て籠もり事件にて、八年の刑を受け、戦線復帰を目前にして、肝臓癌にて八王子の医療刑務所にて亡くなった、板垣哲雄さんの墓参に行く。板垣さんのお墓のある新横浜の三会寺(さんねじ)には、日露戦争から大東亜戦争で亡くなられた軍人のお墓が沢山ある。日露戦争で亡くなられた方のお墓には、軍隊の階級を示すのに「兵」の旧称である「卒」の文字が刻まれている。私は、一月の二日に来たので、久しぶりと言う思いはなかったが、私以外の人たちは、一年ぶり。供花し、線香をあげて、哲ちゃんの好きだった酒をお墓にかけて手を合わせた。来年は、十三回忌となる。それまではお世話させて頂こうと思っている。

直会は、弘明寺の尼野保さんのお店「花笠」にて。山崎、板垣氏を偲んでの一献会。その後、山崎雅夫さんと、藤棚の「やまと」から「すくね」に転戦。久しぶりの大破・轟沈の夜だった。※昭和五十二年、花園神社にて行われた「経団連事件」の支援集会。前列、右側にいるのが板垣さん。亡くなられた山崎邦雄さんや水原弘雅さんも写っている。

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白菜に抱かれて。

2017-02-20 11:23:47 | 日記
二月十八日(土)晴れ。

久しぶりに何の予定もない土曜日。七時半に起きたが、家族はまだ寝ている。何も用事がないのだからゆっくり寝かせておこうと、食卓で手紙を書く。最近、手紙を書く、という行為が、ひどく億劫になってきた。お礼状もすぐに書かなければならないのに、グズグズと遅らせてしまう。先日見た、ハーフマラソンだったか、どこかの選手の座右の銘に「明日やろうは、馬鹿やろう」と言うものがあって、とても印象に残った。その座右の銘が頭に残っていて、そんな私のダメな習慣を直そうと、起床後すぐに机に向かい、三名の方に手紙を書いた。機関誌購読のお礼状、先日の野村先生の生誕祭に若い人を参加させて頂いたことのお礼状。終わった時は九時前。家族を起こして朝食。

白菜が旬なのにとても高い。四分の一のサイズの物が、二百円前後、一玉ならば、千円にもなる。そんな白菜四分の一全部と、貧乏人の応援団、もやしとナルトを炒めて、味覇のスープでさっと煮てからとろみをつけた。それにタラコ。みそ汁は、大根。野菜中心のヘルシーな朝食となった。

夕方に、お歳暮で頂いた商品券を持って「そごう」の食品売り場で買い物。おおっカツオがあった。この時期では、マアマアのものだ。私が独り占めにするので、家族には「ブリ大根」用の「ブリの切り身」と「煮込みハンバーグ」を買った。入浴後に、一週間撮り溜めしておいた「べっぴんさん」を見ながら、カツオのお相手は黒霧島。平凡で、恙ない一日が終わる。

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戸塚で仲良しさんたちと痛飲。

2017-02-18 13:12:06 | 日記
二月十七日(金)晴れ。春一番。

年代差があって、ファンになったことはないが、「春一番」と聞くと、なぜかキャンディーズを思い出す。誰が誰だか名前が一致しないが、確か、左側にいた痩せた女の子を、いいな。と思ったことがある。それにしても風が強すぎて、(横浜市では、最大瞬間風速22・7メートルを観測した)午後から、みなとみらいの歯医者に行った時など、海風とビル風で飛ばされそうになった。

夜は、吉本将誠氏、小針政人氏、そしてFBFの杉浦里美さんたちと戸塚の「ふるや」というお店で同志の会。初めて行ったお店だが、本業は、肉屋さんとのこと。すき焼きやしゃぶしゃぶが名物らしい。古民家のような佇まいの店で、中々雰囲気はよろしい。肉は、次にして一品料理を味わう。料理よりも、人の味に酔う。次に行ったのは、駅の近くの、カフェバー。ここもオシャレで、申し訳ないが、私だけ「焼酎のロック」にして頂いた。次回の約束をして解散。いい夜だった。

戸塚に行くのに、バスの時間のタイミングが悪く、運動がてら歩いて行こうかとも思ったが、五時近くになっても春一番の機嫌が直らず、気が萎えるので、タクシーで早めに保土ヶ谷駅に行き、駅ビルにある書店にて書籍浴。嵐山光三郎の『漂流怪人・きだみのる』が佳境に入ったので、電車の中などで気楽に読める本を探していたら、横浜生まれの作家として有名な獅子文六の『私の食べ歩き』と『食味歳時記』(中公文庫)の二冊と、猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)を購入。午前中に、アマゾンで注文しておいた大野林火の『行雲流水-私の俳句歳時記』(明治書院)が届いた。箱入り上製のしっかりしたもので、手にしただけで嬉しくなるような本だ。大野林火は一時期に横浜の商工実習で教鞭をとっていたことがあり、今日一緒だった吉本さんは、そこの卒業生である。電車の時間まで、コーヒー店で、しばしの読書。

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