二月十三日(月)晴れ。
私の幼馴染に、古美術商の方がいる。高校以来、しばらく会わずにいたが、十五年ほど前に再会し、以来、親しくさせて頂いている。竹馬の友というのは、有難いもので、お互いに気を遣わずに、若い頃の気持ちで、会うから疲れることもない。
その古美術商の友人から、教わったことをとても大切にしている。彼も若い頃は、経験不足からくる、見間違いや、功をあせって何度か手痛い失敗、損失を被ったことがあると言う。そういった失敗の経験を踏まえて、悟ったことが、「品物を見ることよりも、それを持って来た人を見る」ということだと教えて頂いた。多くの場合、確かな品物は、やはり確かな人の家にあり、身分の確かな人が持ち込んでくる。どんなに高価な、素晴らしい品物でも、怪しい人物が持って来た品物に手を出す時は、余程の注意が必要。品物に惑わされて、人物を観なかったら、ほとんどの場合、手痛い目に遭う」。と教えて頂いた。
私は、幼馴染のこの言葉を人生訓としている。いわゆる世間で言う所の「右翼」などという世界に長く身を置いていると、何を勘違いするのか、様々な話を持ち込んでくる人たちがいる。企業の不正を告発する話や「切り取り」や政治家のスキャンダル、金融の不祥事などである。その手の話は、一切受け付けないようにしているが、嫌であっても、どうしても断り切れない人からの依頼で、仕方が無く、一度はお会いして話を聞くこともある。
そんな時に、まず頭に浮かぶのが、古美術商の幼馴染から聞いた、「品物を見ることよりも、それを持って来た人を見る」。と言うことだ。相談されたことが、一見、とても大きな話で、尤もらしいことでも、その話を持って来た人が、生業を持たず、社会的な地位の無い人の場合、ほとんどが「危ない」話であることが多い。六十の半ばを超えると、失礼ながら、初めてお会いする人でも、二三分話をすれば、その人が大体どういった人生を歩んできたかが、想像つく。もちろん、それはそのまま私にも当てはまることで、こんな私に、そういった相談をすることが、お門違いと言うものだ。反対に、大きな会社を経営していたり、社会的な立場のある人からの話は、大体まとまることが多い。それはなぜか・・・。私のためにと思って、持ってくる話であったり、自分たちの、地位やそれまで築いてきたものを失うような、危ない話には手を出さないからだ。
今更、金もうけしようなどとは更々思わない。心の通じ合う友がいて、毎日、安酒が飲めて、家族が健康ならば、それ以上望むのは、贅沢と言うものだ。それで十分だと思っている。
午前中から、友誼団体の方と一緒に東京へ。親しい方たちとお会いするのは楽しい。三時過ぎに、横浜に戻り、事務所へ。三日ぶりだが、郵便物が随分と溜まっていた。お会いしたことのない獄中の二人の方から手紙とはがき。最近、返事を書くのが億劫で仕方がない。それでも、どんな人でも、一度は返信をすることにしている。夜は、「おでん」で、月下独酌。豊橋の福井英史さんから頂いた『無実の死刑囚・袴田巌獄中所感―主よ、いつまでも』(新教出版社刊・袴田巌さんを救う会編)を読む。昨日の『沈黙』と同様、重いテーマだが、世俗にまみれている中で、心が洗われる。
私の幼馴染に、古美術商の方がいる。高校以来、しばらく会わずにいたが、十五年ほど前に再会し、以来、親しくさせて頂いている。竹馬の友というのは、有難いもので、お互いに気を遣わずに、若い頃の気持ちで、会うから疲れることもない。
その古美術商の友人から、教わったことをとても大切にしている。彼も若い頃は、経験不足からくる、見間違いや、功をあせって何度か手痛い失敗、損失を被ったことがあると言う。そういった失敗の経験を踏まえて、悟ったことが、「品物を見ることよりも、それを持って来た人を見る」ということだと教えて頂いた。多くの場合、確かな品物は、やはり確かな人の家にあり、身分の確かな人が持ち込んでくる。どんなに高価な、素晴らしい品物でも、怪しい人物が持って来た品物に手を出す時は、余程の注意が必要。品物に惑わされて、人物を観なかったら、ほとんどの場合、手痛い目に遭う」。と教えて頂いた。
私は、幼馴染のこの言葉を人生訓としている。いわゆる世間で言う所の「右翼」などという世界に長く身を置いていると、何を勘違いするのか、様々な話を持ち込んでくる人たちがいる。企業の不正を告発する話や「切り取り」や政治家のスキャンダル、金融の不祥事などである。その手の話は、一切受け付けないようにしているが、嫌であっても、どうしても断り切れない人からの依頼で、仕方が無く、一度はお会いして話を聞くこともある。
そんな時に、まず頭に浮かぶのが、古美術商の幼馴染から聞いた、「品物を見ることよりも、それを持って来た人を見る」。と言うことだ。相談されたことが、一見、とても大きな話で、尤もらしいことでも、その話を持って来た人が、生業を持たず、社会的な地位の無い人の場合、ほとんどが「危ない」話であることが多い。六十の半ばを超えると、失礼ながら、初めてお会いする人でも、二三分話をすれば、その人が大体どういった人生を歩んできたかが、想像つく。もちろん、それはそのまま私にも当てはまることで、こんな私に、そういった相談をすることが、お門違いと言うものだ。反対に、大きな会社を経営していたり、社会的な立場のある人からの話は、大体まとまることが多い。それはなぜか・・・。私のためにと思って、持ってくる話であったり、自分たちの、地位やそれまで築いてきたものを失うような、危ない話には手を出さないからだ。
今更、金もうけしようなどとは更々思わない。心の通じ合う友がいて、毎日、安酒が飲めて、家族が健康ならば、それ以上望むのは、贅沢と言うものだ。それで十分だと思っている。
午前中から、友誼団体の方と一緒に東京へ。親しい方たちとお会いするのは楽しい。三時過ぎに、横浜に戻り、事務所へ。三日ぶりだが、郵便物が随分と溜まっていた。お会いしたことのない獄中の二人の方から手紙とはがき。最近、返事を書くのが億劫で仕方がない。それでも、どんな人でも、一度は返信をすることにしている。夜は、「おでん」で、月下独酌。豊橋の福井英史さんから頂いた『無実の死刑囚・袴田巌獄中所感―主よ、いつまでも』(新教出版社刊・袴田巌さんを救う会編)を読む。昨日の『沈黙』と同様、重いテーマだが、世俗にまみれている中で、心が洗われる。