白雲去来

蜷川正大の日々是口実

大杉栄の子供たちはキラキラネームのはしり?

2019-03-17 09:00:59 | 日記
三月十四日(木)晴れ。

今年は、花粉の症状が余りでないと思っていたら、良い意味での加齢で、歳と共に花粉症が平気になることもあると、テレビでやっていた。ホントかなぁー。それでも昨年よりは、楽で助かっている。

天気も良いし、ガバッと起きた朝食は、カマスの干物、ナポリタン、牛筋。相変わらず、有り合せで脈絡がない。因みに我が家では、ナポリタンは「おかず」として食べる。昼は、郵便局に行くついでに、上の子供と「昼マック」で、エビカツバーガーにコーヒー。夜は、サバの文化干し、マーボー豆腐、豚肉とキャベツの炒め物。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて、家族と共に談笑酔。

ニュースで、親が付けた名前が嫌で改名した男の子人のニュースをやっていた。まあ親が子供に様々な夢や期待を託して名前を付けるのは、当然のことだが、私のような昭和の世代の者には、ホントカよー、大丈夫なの、そしてつい「親の顔が見たい」などと、ひとりゴチてしまう。パソコンでいわゆる「キラキラネーム」を検索すると、出るわ、出るわ・・・。まあよそ様の子供なのだから、文句をいうこともないが、しかしなぁー。

例えば、新豚(にゅーとん) 獣王(らいおん) 水夏(すいか) 永久恋愛(えくれあ)瀬詩瑠(せしる) 璃々衣(りりぃ) 望愛(のあ) 愛歩(あほ) 大麻(たいま) 愛保(らぶほ)心愛(ここあ)唯愛(いちか、ゆめ)姫星(きらら、きてぃ)七音(どれみ)泡姫(ありえる)一心(ぴゅあ)海音(まりん)。これは決して冗談などではなく、「キラキラネーム・ランキング」と検索すれば、幾らでも出てくる。愛保(らぶほ)に泡姫(ありえる)漢字を見ているだけで顔が赤くなる私は古い人間なんでしょうかねェ-。

関東大震災の折に、伊藤野枝と共に殺された、アナーキストの大杉栄も、子供に変わった名前を付けた。大杉、伊藤は長女に「悪魔の子」と呼ばれたからと挑発的に魔子と名づける。その後誕生した子どもたちは、エマ、ルイズ、ネストルとアナキストたちから名前が取られた。当時としては、これも世間の顰蹙を買ったに違いあるまい。

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吉田茂の機嫌の良い原因は。

2019-03-15 11:08:36 | 日記
三月十三日(水)晴れ。

柳カレイの干物が好きだ。横浜や北海道などで獲れるカレイとどう違うのかと、少し気になっていたのでPCで調べてみたら、「正式名称はヤナギムシガレイといいますが、ほっそりとした体形が柳の葉を連想させることから柳カレイと言われています。 新潟を代表する特産品で。柳カレイは刺身や寿司、天ぷらやフライではもちろんのこと、特に一夜干しは絶品」。へぇー刺身や寿司、天ぷらで食べられるとは、知らなかった。私は、干物派かな。朝食でそれを食した。美味かった。しかし焼き方が難しく、グリルにくっ付いてしまい、はがす時に身がボロボロになるので要注意である。

夜は、昭和の味のナポリタン、スライス・マッシュルームをたっぷり載せたポークソテー、「S&Bの混ぜるだけのパスタソース、ペペロンチーノ」とオリーブオイルで炒めた「ホタテのアヒージョ」。酔狂亭にて家族と共に談笑酔。

自宅の前をよく救急車や消防車がサイレンを鳴らしながら通って行く。近所に脳神経科専門の病院や戸塚に行く「権太坂」への抜け道となっているからだろう。救急車はともかく、サイレンを鳴らして走る消防車を見ると、あるエピソードを思い出す。それは、昭和三十八年の七月、大磯の吉田茂邸を三木武夫が訪ねた折、あまりに吉田の機嫌が良いので、三木が「先生。随分と機嫌が良いですね」と聞くと、吉田は「君、知らんのかね。今、河野の家が燃えてるんだよ」。

その新築したばかりの河野一郎邸を全焼させたのは、野村先生であり、「政財界の腐敗を正す」とした、いわゆる「炎の警鐘事件」である。吉田茂と河野一郎の不仲は有名であり、吉田茂は新聞記者のインタビューで「嫌いな政治家は」と問われた際には、「韓国の李承晩と河野一郎」と答えた話は知られている。

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野村先生と天ぷら。

2019-03-13 10:23:53 | 日記
三月十二日(火)晴れ。

良い天気の日の朝食は、「うまい納豆小粒」これは、私の好きな「舟納豆」の次の次くらいに美味しい。能登屋のさつま揚げに、ほうれん草の味噌汁お揚げ入り。昼食は、関内駅近くの「利休庵」にて「鴨せいろ蕎麦」に蕎麦いなり。夜は、牛筋の煮物、エビチリ、ナスとひき肉のオイスター炒めにカツオ。

今月大学を卒業する子供は、アルバイトの無い時は、家でごろごろしている。昨夜、酔った勢いで「明日、何処かに昼ご飯を食べに行こうか」と言ったらしい。しっかり覚えていて、事務所に行く前に、関内駅近くの蕎麦屋の名店「利休庵」にて昼食。「鴨せいろ」と「つけ天そば」に「そばいなり」。このお店の二階のお座敷で、一杯飲みながらコース料理を食べたことがある。さすが老舗で、料理も美味しい。

このお店の並びに、サザン・オールスターズの「原坊」の実家の天ぷら屋の「天吉」がある。野村先生のご尊父、三郎氏もこのお店を贔屓にしていたと聞いたことがある。その昔、京急の日ノ出町駅の近く、大岡川沿いにあった天ぷら屋の「天作」は、先生のご尊父はもとより、先生ファミリーがご贔屓にしていたお店で、私も何度も先生に連れられて行ったことがある。現在は、京急の戸部と言う駅近くに移転した。他に、先生が良く通ったのは、羽田空港が古い時に近くにあった東急ホテル内の天ぷら屋。

先生がプロデュースした映画「撃てばかげろう」の横浜ロケの際、先生と川谷拓三さんと「天作」に行った。その折に川谷さんが、「良い映画があるんですが、小屋(映画館)にかからないのですが」。そのビデオ持っていると言うことで、当時住んでいた私のマンションでその映画を皆で見た。特攻隊、「敷島隊」を追視したセミドキュメンタリーの「北緯15度のデュオ」である。その映画を見た先生は、その場で西武のT氏に電話を入れて、西武系の映画館で上映が決まったいきさつがある。

先生は、天ぷらを食べる時は、小皿に塩や抹茶塩、味の素、七味をミックスしたものに天ぷらにつけて食べた。余り「天つゆ」を使わなかった。私も、たまに天ぷら屋に行くと、思い出して、そうして食べることがある。先生も川谷さんも亡くなられてしまい、一緒に何度かお供をした「天作」のあった場所もビルが建ち、随分と様変わりしてしまった。「天作」のあったすぐ近くに「瞼の母」や「一本刀土俵入り」を書いた「長谷川伸誕生の碑」がある。

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東日本大震災から八年。合掌

2019-03-12 18:32:30 | 日記
三月十一日(月)雨後晴れ。

東日本大震災から八年。日本は地震大国と言うことを改めて実感する。熊本、阪神、大阪北部、北海道の胆振地方と大きな被害を生じさせている。関東地方にも三十年以内に関東大震災規模の地震が起きる可能性は九十パーセントとか。と言うことは、明日、いや今起きても不思議ではない。「備え」と言うが、水や食料を備蓄しても、家が倒壊しては意味がない。我が家は築三十年近い。耐震補強をするならば、新築の賃貸マンションに引っ越した方が安上がりで、安心かもしれない。

大きな地震が来て、助かるか、助からないかはほとんど運に近い。天の怒りが収まるように、更に、地の声が聞こえないように祈るばかりである。しかしながら日本人は辛抱強い。昔から、こういった災害を幾度も経験しても、その被害を、悲しみをいつまでも引きずることはない。桜の花を愛する気持ち。すなわち咲くことよりも、散ることの哀れさに美を見る。正に、日本人の「諦念」の原点のように思えてならない。昨日、同志らと共に、靖国神社に昇殿参拝をした。国家のために殉じた二百五十万柱の英霊が祀られている。皇国をお守りくださいと手を合わせた。

午前中は事務所にて原稿書き。午後から歯医者。帰り道に野毛に出来た「情熱餃子」と言う店で生餃子を四人前買った。一人前五個入っていて二百五十円×四個で千八十円。家族であっという間に平らげた。美味しかった。魚屋で目にした鰹の刺し身、ダメもとで買ったが、これが中々良くて、ロッポウ、シチケンぐらいの物で、思わずニヤリ。

古書店で、大原康男先生の『平成の天皇論』(展転社・平成六年九月刊)が目について、思わず購入した。野村先生と大原先生の対談が掲載されている。その対談の出典は『燃えよ祖国』の平成五年の六・七月号とあり、忘れていた記憶がよみがえってきた。確か事務所の書棚にもあるはずだが、二冊あっても良い。御代替わりも近い。良い機会なので、もう一度読んでみようと思っている。

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東日本大震災風化防止の運動へ。

2019-03-12 11:54:20 | 日記
三月十日(日)晴れ。陸軍記念日。東北大震災から8年。

今日は、色々な意味で日本人にとって忘れられない出来事の多い日である。古くは、明治三十八年の今日、日露戦争の奉天戦において、ロシア軍を駆逐し、その戦に勝利した武勲輝く日である。この激戦にて歩兵第三十四連隊大隊長として指揮を執り、明治三十七年八月三十一日、遼陽の会戦にて戦死した軍神、橘中佐の歌が有名である。「遼陽城頭夜は闌けて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて 目覚めがちなる敵兵の 胆驚かす秋の風」。

また、戦時中、日本の大都市への米軍の空襲は幾度も行われ、特に、昭和二十年三月十日の「東京大空襲」では百万人が罹災したと言われている。今日、三月十日は「東京大空襲」の日でもある。

明日は、八年前の東北大震災の日。ちょうどその震災が起きた時間に、私は札幌にいた。車に乗っていたせいもあり全く揺れを感じず、震災を知ったのは、昼食を兼ねて入った屋台村に備え付けられていたテレビによってであった。押し寄せる津波から必死に逃げて行く車の映像を忘れることが出来ない。ホテルに入り、ニュースにくぎ付けになるが、夜になってやっと家族に連絡が取れて安心したことを覚えている。

その震災を風化させてはならないと、民族派側から声を挙げたのが国粋青年隊で、毎年、3・11に近い日曜日に「東日本大震災風化防止」の街頭活動を震災の翌年から行っている。今年は、私と大熊雄次氏が参加。朝八時に靖国神社に集合とのことで、五時に起きて支度をし、六時四十一分の横須賀線に乗って東京行き。靖国神社には、本日の街頭活動に参加する、多くの団体の街宣車が集い、圧巻である。主催者の国粋青年隊の会長である吉岡亜樹氏に挨拶。十時に靖国神社に昇殿参拝を済ませて、街頭活動に出発する同志らを見送る。

大熊氏と御徒町に行き、私の好きな「へぎそば」で有名な「越後屋」へ。その後横浜に戻り、家族と合流し、壊れたプリンターを買いにヨドバシカメラへ。夕飯の買い物をした後に帰宅。       

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