白雲去来

蜷川正大の日々是口実

民族派の論客に学ぶ。

2019-03-11 13:27:24 | 日記
三月九日(土)晴れ。

朝九時前に耳鼻咽喉科に行った。九時半からなのに、私が行った時には、すでに十人ほどの人が先着していた。一時間ほど待って診察して頂いた。内視鏡などの検査では、「喉が炎症している」とのことで薬を貰った。大事に至らないでホッとした。診察が終わる頃には、花粉症なのか、病院内に老若男女が溢れていた。私が帰ると皆、口をそろえて「お腹が空いた」。気楽なものである。

昨日から解凍をしておいた「フクイのカレー」の「ポーク」と「チキン」をそおっと温める。昨日買っておいた「ココイチ」の福神漬け(これが好きである)と目玉焼きを添えた。あとは豚汁。四人で二つぐらいが丁度良い。私が知っているカレーのなかでは、「フクイのカレー」(検索してみて下さい)が最高である。

一水会の機関紙『レコンキスタ』の今月号(478号)に阿形充規先生のインタビュー記事「時代に即した活動で我々の声を拡大せよ」が掲載されていて興味深かく読ませて頂いた。中国との関係を自らの体験を通して語られているが、阿形会長の対中国へのスタンスが分かり、勉強になった。また、いつもご恵送頂いている『芳論新報』の三月号には、弊誌『燃えよ祖国』にも連載して頂いている國の子評論の横山孝平さんの「二百年の時を経て行われる御譲位をめぐって」という論文が掲載されている。自称保守の文化人が、この御譲位、元号問題に関して、随分と静かである。やはり「官制保守」の限界か。横山さんの論文を心して読んだ。

『VERDAD』-月刊ベルダの三月号には、政治評論家の山本峯章先生の「安倍首相よ国を売りたもうなかれー北方四島は日本の固有の領土である」は、日露交渉を考証したものだが、北方領域の歴史的な出来事を分かりやすく解説し、安倍首相や鈴木宗男などが推し進めている「二島返還論」を当然ながら否定している。『敬天新聞』の「社主の独り言」が好きだ。産経の「産経抄」ではないが、新聞が届くと、まず最初に読むのが「社主の独り言」である。今回は「大辛」かそれとも「大甘」なのか・・・。切り口の鋭い論評に、いつも目からウロコの思いで読ませて頂いてる。今回は、冒頭、日露交渉のことだが、同感することばかりである。しかしながら白倉社主が「韓流ドラマ」のファンとは知らなかった。思わずニヤリとした。

夜は、酔狂亭にて、「寅さん」を見ながら、「黒霧島」をお供に独酌。静かに一日が終わる。恙なしや。

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麻疹(ハシカ)は怖い病気である。

2019-03-11 12:49:24 | 日記
三月八日(金)晴れ。

花粉のせいなのか、のどの調子が悪く、声枯れが続いている。若い頃に喉の手術をしたことがあり、どうも喉が弱い。明日は、耳鼻咽喉科に言ってみるつもり。天気の良い日の朝食は、マグロの味噌漬け、塩鮭、豚汁。昼はキャベツの糠漬けにおにぎり一つ。夜は、清風楼の焼売、冷食の酢豚、むしどり。

麻疹が流行しているとのこと。記憶では「おたふく風邪」も「麻疹」も子供の頃に罹ったような気がする。小学校に上がる前と記憶しているが、おたふく風邪でほっぺたが痛かったことを覚えている。しかし、麻疹の記憶はないが、母が話していたことを記憶にあるので罹ったのだろう。

これまで、麻疹がそんなに怖い病気であることを意識したことが無かった。正直言って「たかが」ぐらいにしか思っていなかった。それが、麻疹の罹患者が、コンサートに行ったとか、旅行をして多くの人と接触したことが、問題となり、へぇーという感じである。

今読んでいる吉村昭の『私の普段着』(新潮文庫)の中に、とても興味深い、かつ恐ろしいことが書かれていた。転載してみる。

「ハシカは麻疹と称され、二十年ほどの周期で流行がみられる。被害が大きく、しかも正確な記録が残されているのは文久二年(一八六二)の夏の流行で、『武江年表』に『麻疹の大流行』として記載されている。二月頃、長崎に入港した外国船の船員がハシカにかかっていて、それが中国地方をへて京、大坂にひろまり、関西地方への旅から江戸にもどってきた者からたちまち江戸市中に蔓延したとある。『良賤男女この病痾に罹らざる家なし』『衆庶枕を並べて臥したり』と、その猛威のほどを伝え、『寺院は葬式を行うにいとまなく、日本橋上には一日棺の渡る事二百』とも記されている。

『江戸洛中麻疹疫病死亡人調書』には、七万五千五百九十八名が死亡したと記載されている。(中略)文久二年の記録では麻疹にかかるのは幼児に限らず大人も感染したと書かれている。八万名弱という死者数は、当時の江戸の人口の十分の一近くで、容易ならざる数字である。娠婦で『命を全うせるもの甚だ少し』という記述もあって、多くの大人が死者となったことをしめしている」。

いやはや「たかが」などと言った無知を反省する次第である。医学の発達によって、江戸時代ほどの流行の気配はないが、今冬のインフルエンザでは、多くの方が亡くなられた。最低でも手洗いうがい、適度な部屋の湿度を保つぐらいの予防策を取らなくては。

夜は、酔狂亭にて、月と影とを相手に独酌。

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日々是好日、いや口実。

2019-03-09 16:14:01 | 日記
三月七日(木)曇り後雨。

雨戸を開けて空を見れば、今にも空が泣き出しそうだ。朝食は、清風楼の焼売、鶏のから揚げ、ほうれん草の味噌汁。昼は、おにぎり一つ。夜は、肉豆腐、豚汁、ポークソテー。さすがに連日の酒を反省して、ビールの小瓶二本でやめた。

電化製品などを買うと、買った日付をテプラで貼っておく。壊れた時など、ああこんなに前に買ったのだから仕方がない。とあきらめることもあれば、何でこんなに早く・・・。とがっかりすることもある。事務所と自宅で使っているプリンターは、合計五台。それぞれ用途が違うので、これくらいの数になる。例えば、モノクロ専用機、A3の用紙が使える複合機、単に、カメラで撮ったものを専用に印刷するプリンター、高性能の大型プリンター。それぞれインクが違うのが難点だが、仕事に必要なのだから仕方がない。スキャナーはエプソンのGT―X820という機種を長く使っていて、他の物は知らないが、これが一番良いような気がする。ちなみに平成21年の9月の購入のものであるから十年も頑張っていてくれる。

パソコンのすぐ上に置いてある、写真のプリントアウト専用に使っているキャノンのiP7230が壊れた。平成の24年の11月に買ったものだ。七年の私へのご奉公に耐えたものだが、まあ良く頑張ってくれたと思っている。複合機ではなくプリンターの専用機なので、大した値段ではないが、懐具合のさみしい時に限って、それを見越したように何かが壊れたりする。いやそんな気がするのかもしれない。

吉村昭の『ひとり旅』(文春文庫)と『日本綺人物語』(福田和也著・廣済堂新書)、もう一冊『平成維新史』(芹川洋一著・日経プレミアシリーズ)の三冊を交代に読んでいる。移動中や人との待ち合わせの時、福田和也の本は病院の待ち合わせ専用にしてある。大体いつも二、三冊を併読している。まあ食事で言えば、朝昼晩のメニューのようなものだ。歳と共に記憶力が悪くなり、読了したことを忘れて読んでいて、途中で気が付くこともある。しかしながら飲み食いするよりも格段に安いし、ボケ防止にもなる。

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ふぐと芸妓と幇間と。

2019-03-08 13:45:52 | 日記
三月六日(水)雨。

雨か。子供は二人とも大学が休みなので、バイトの無い日はのんびりとしている。朝食は、冷食のハンバーグ、目玉焼き添え、ミニの「赤いきつね」。まあファミレスに行ったと思えば、という朝食だった。昼は、おにぎり一つ。

夕方に、お世話になっている方に招待を受けて調布行き。新宿の京王線の改札で、盟友のO氏と待ち合わせ。調布の駅までは特急で二つ目であるが、ちょうどラッシュにぶつかり、往生した。途中、千歳烏山を過ぎる。亡くなられた折本満氏の住んでいたところだ。特急ゆえ、そんな感傷に浸る暇もなく、想い出が一瞬で過ぎ去った。

六時半にご自宅着。今日は、以前共に行った大分の「フグ」を取り寄せて頂き、芸妓さんの踊りと三味線、そして今は少なくなった幇間の芸を堪能するという贅沢な宴だ。芸者さんとお座敷で遊ぶことはあっても、自宅に呼んで独り占めに近い形で楽しむことなど、初めてのことだ。芸妓さんも素晴らしかったが、幇間の師匠の芸も、上手で爆笑した。日本の文化であることを、しみじみ実感した。

三時間以上楽しんで、お暇した。その後、横浜に戻り「サリーズバー」へ。少し飲んでから、サリーを誘って「写楽」で〆。

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五十年ぶりに先輩と会う。

2019-03-07 13:50:30 | 日記
三月五日(火)晴れ。

朝食をとらずに、正午に、愚妻と上の子供を連れて、関内駅のすぐ近く、大通公園脇の、うどん屋「おおぎ」へ行った。先日、友人に連れて行って貰い、ここのうどんを気に入って、今回で三度目である。二人は「辛みそうどん」「味噌煮込みうどん」と私は「天ぷらうどん」。「定食」にすると、ご飯と生卵が付く。お会計の時に、他のテーブルを見たら、今日は暖かったせいなのか、ほとんどの人が「ざるうどん」を食べていた。

食後に、有隣堂に行くと、店の前で古書のワゴンセールをやっており、『のり平のパ-ッといきましょう』(三木のり平・小田豊二聞き書き・小学館)が目についたので購入。千円だった。三木のり平と言えば、単に喜劇役者として、森繁との共演の「社長シリーズ」ぐらいか知らなかったが、彼が、喜劇役者として、更に優れた喜劇演出家であったことを知ったのは、最近のことである。人について書かれた物が好きである。家で過ごす楽しみがまた増えた。

私の友人が、洋光台と言う所に住む彼の叔母が馴染みにしているお店に連れて行って貰った所、同年代のマスター氏と話がはずみ、出身高校を聞くと、横浜高校とのこと。それでは「蜷川を知っているか」と聞くと、「良く知っている」と言うことになった。広い横浜で、さらに横浜高校の出身者など、幾ら同世代とはいえ、何百人もいる中で、私を知っている人と会うと言うことは、まさに奇跡に近い。マスターが私を知っていたのは、何と陸上部の一級先輩だったこと。先月のことである。そこで友人と日にちを調整して、そのお店に行った。高校以来、約五十年ぶりだったが顔を見てすぐに先輩と分かった。

その先輩が、以前経営していた小料理屋で、私は参加しなかったが陸上部のOB会をした時の写真が店の隅に飾ってあった。どれも懐かしい人たちばかりである。皆さん、お元気でいるようだが、監督であった植木先生は、数年前に亡くなられた。主だった方々の現況を聞きながら、想い出話を肴に飲んでいる中で、良くして頂いた先輩と仲良くしていた同期の二人に連絡を取って頂き、電話をして貰った。懐かしさの中に、一瞬、高校生の頃の顔が甦ったが、電話の声に、当然ながら五十年の時間の隔たりが伝わってきた。二人のその後の生活や、何処で何をしていたのかを全く知らない。ただ懐かしさのなかで、唐突に電話をしたことが、とても軽率だったと少し後悔をした。

をそれでも、料理も美味しく、先輩も変わらず接してくれて楽しい酒だった。この店に連れて来てくれた友人氏に感謝しつつ、店を後にした。

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