白雲去来

蜷川正大の日々是口実

どこまで続くぬかるみぞ。

2021-03-08 12:11:56 | 日記

3月5日(金)曇り。

一都三県に出されている緊急事態宣言が、今月の21日まで延期になった。不思議に思うのは、飲食店の自粛や大きな集会などを規制して本当にコロナの罹患者が減るのだろうか。私の家族はもちろん、多くの人が手洗いうがい、マスクを着用している。スーパーなどに行くと、ほとんどの人が入り口の消毒液で手を消毒している。コロナ対策と言っても、我々ができることは前述のことぐらいだ。確かに罹患者の数は減っているが、手洗いうがい、マスク、飲食店の自粛等でコロナが絶滅できるのだろうか。

仕事で東京に通っている子供に聞くと、通勤電車は相変わらず満員で、コロナ前とほとんど変わりがない。と言っていた。自宅近くのファストフード店へ行くと、椅子が一つ置きに座れなくなっている。ソーシャルデスタンスとやらで。病院の待合室もそうなっているところが多い。では電車やバスはどうだろうか・・・。そんな対策をしていてるとは聞いたことがない。一時は、パチンコ屋が、コロナの巣のように言われたが、パチンコ屋からクラスターが出たとは聞いたことがない。むしろクラスターが発生するのは、清潔、静か、安心安全であるべき病院の方が圧倒的に多い。というのは皮肉な話だ。病床が足りないというのならば、なぜ新しく作ろうとしないのか不思議だ。IRの予定地に、レジャー施設と一体化した大型の感染症専門の総合病院でも作ったらどうだ。

今日も、何だかんだとこじつけて悲憤慷慨の酒に酔うか。


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家飲みで二日酔いか。情けネェ。

2021-03-07 12:50:16 | 日記

3月4日(木)曇り。

いやはや昨夜飲み過ぎた。事務所から「経団連事件」関係の資料を持ってきて読んでいたり、眠れなくなってネットフリックスで映画を見たり・・・。もちろん飲みながら。自宅で飲んで二日酔いになるのだから安上がりに出来ていると言おうか、懲りないと言おうか。そんな訳で、上の子供が会社に行くのを見送ってから、二度寝した。目が覚めたのは昼に近かった。お天道様とカタギの衆に平身低頭、スマンスマンのオスマンサンコンである。

人目を忍んで、(と言うほどではないが、一応照れ隠しで)「ほっともっと」で弁当確保。夜まで何もせずにグターッとしていた。たまにはこんな日もあるさ、と言い訳しながら自戒の念を込めて『戦藻録』を読む。

昭和17年12月8日。「大東亜戦争第二年目に入る。顧みてこの一年の成果思うにまかせざるを遺憾とし、今後における善謀敢闘により征戦目的の完遂を期す。この間散華したる一万四八〇二柱(十一月二十日調べ連合艦隊)に謹んで敬弔意を表す。0七00祭壇をしつらえて玉串を奉奠す。以下略」。

トラック島にて。とある。著者の宇垣纏については様々な評価があるが、この『戦藻録』は、私にとっては、「禅書」のようなものである。


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経団連事件から44年。

2021-03-05 18:04:19 | 日記

3月3日(水)晴れ。

6時起床。寒い朝。慌てて暖房を入れる。朝食は、マルシンクのハンバーグ、ウインナー、目玉焼きに小カップ麺。私以外、家族は誰も見向きもしないメニューである。昼は、ドーナツ一個にコオヒイ。夜は、豚肉の鍋、サバ文化干し。お供は「魔王」のロック二杯に、「黒霧島」のソーダー割り。酔狂亭にて独酌。

昭和52年(1977)の今日、野村先生らが「財界の営利至上主義を撃つ」として経団連会館を襲撃選挙したいわゆる「経団連事件」から44年目の日である。戦後の右翼がともすれば体制擁護とみられていた中で、右翼本来の姿である反体制色を明確に打ち出した事件として、竹中労と言った左翼の言論人からも評価された。

先生は、「河野邸焼き討ち事件」にて昭和50年に12年の刑を終えて戦線復帰。その2年後に「経団連事件」に決起し再び囹圄の身となる。戦線復帰から経団連事件までの経緯は『友よ山河を亡ぼすなかれ』(絶版)の中の「経団連事件・決起までの真相=迎撃の思想と出撃の論理=」と、『獄中18年』(二十一世紀書院)の「回想の706日」に詳しい。昭和52年3月3日は、私の民族派運動の原点でもある。※写真は昭和52年夏、花園神社にて開催した経団連事件の支援集会。連帯の挨拶をする国防青年隊、故渡邊康司氏。


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慰霊碑に思う。

2021-03-05 16:33:36 | 日記

3月2日(火)曇り。

今月の7日で、緊急事態宣言が解除になると思っていたら、何と21日まで延長とのこと。れれれれっと。21日は吾輩の誕生日ではないか。せめて前日の20日までにしてくれたら当日の誕生会ものんびりと飲めるのだが。まっ仕方がないか。なせ相手がウイルスだから、如何ともし難い。

先日届いたのが『江戸・東京 石碑を歩く』であるが、まだ全部読んだ分けではないが愛宕神社にある尊攘義軍の「殉皇十二烈士女の碑」がほんの申し訳程度に紹介されていた。まあ文句を言うつもりなどないが、全国という訳には行かないだろうが、せめて東京にある軍人、維新運動関係の碑を紹介するような本が出来ないものだろうか。確か、愛宕神社の近くの青松寺には「日本の一番長い日」の映画で知られている、畑中健二少佐と椎崎二郎中佐等を慰霊した「國體護持 孤忠留魂之碑」や「肉弾三勇士」の碑がある。

そういったものを多くの人に知って頂きたいと思った次第。

 

 


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泡&泡。

2021-03-04 15:38:00 | 日記

3月1日(月)晴れ。

月のはじめ、そして月曜日、浪人の身でも何となく気ぜわしく感じるから不思議だ。午前中は事務所に行き機関誌『燃えよ祖国』の最新号(265号)の集荷を待つ。ホッとする。先月号から、新しいソフトを使っての編集で表紙のデザインを変えた。まあ自画自賛するのではないが、良くできたと思っている。雑誌の編集というものは、単に営利だけではやってられない。特に機関誌というものは、どこの団体でも同じだと思うが、利益などほとんどない。使命感と好きでなければ続けられない。亡くなられた毛呂清輝先生が発行していたのが『新勢力』。『三上卓追悼号』など特集号を幾冊か持っているが、その編集後記の中で毛呂先生が「歯を食いしばって、意地で出している」というようなことを書かれていた。苦しくなると、いつもその毛呂先生の言葉を思い出す。また、いつか寄稿して頂いている方々に報いたいと思っている。

夕方、盟友が久しぶりに来訪。リクエストは「肉」ということだったが、ロイヤルパーク・ホテルの鉄板焼きは7日の緊急事態宣言が明けるまで休み。69階の中華もメインバーも閉めているとのこと。では元町の寿司屋「藤松」に電話すると定休日。伊勢佐木町の「登良屋」も七時まで。それでは、わがままの利く、いつもの「オアジ」で肉料理をということになった。プライベート呑みも久しぶりの事。泡を一本空けて、料理を堪能して、これまた久しぶりに「サリーズバー」へ転戦。コロナを恐れない皆さんでお店は一杯。ご常連のお友達ばかり。今月がサリー姐さんの誕生日ということもあり、また泡で乾杯。時短ということで八時に解散。時短・・・ん。そういえばアラン・ドロン主演映画に「ジタン」というものがあったような気がするが。まあどうでもよいが、いい酒だった。


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