白雲去来

蜷川正大の日々是口実

群青忌の写真の整理。

2021-11-19 14:28:37 | 日記

11月7日(日)晴れ。

パソコンに入れっぱなしの写真の整理に一日かかった。特に群青忌関係の写真データがあちこちの項目の中に入れてているので、それを探して「群青忌年代別写真」という項目を作って、そこにまとめた。と言っても、第一回から十回までは、プロの写真家にお願いせず、自分たちの撮ったものをアルバムに貼っていた。当時はまだアナログの時代で、ネガと写真は整理しているが、それをパソコンには入れていない。いずれそのアルバムの写真をスキャンしてデーターとして残さなければと思っている。

最近の墓前祭や会場での群青忌は、カメラマンの平早勉さんにお願いしているので、データーとして保存してある。しかし、パソコンや外付けのハードディスクが壊れないとも限らない。CDにコピーしようと思っているが、データーが大きすぎて、時間がかかるのでSDカードにしようか悩んでいる。まあ元来がアナログ人間なので、何が一番良いのか、頭が回らない。野村先生関係で後輩たちに残さなければならない資料やデーターが山ほどあって頭が痛い。

夜はむ、ロピアと言うスーパーで肉を買って、我が家で焼き肉。※写真は平成6年の第一回・群青忌のポスター。

 


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藁焼きの鰹のたたき。

2021-11-18 11:08:42 | 日記

11月6日(土)晴れ。

家族の休みの朝は、起きるのも食事ものんびりと。昼食に近い朝食は「紅鮭」、わかめの味噌汁。夜は、古い友人から高知の「鰹のたたき」をご恵送頂き、近くのスーパーに行って、国産のニンニク、新鮮なネギを買ってきて、友人に感謝しつつ楽しんだ。「鰹のたたき」は、近所のスーパーなどで見ると、4、5百円程度だが、高知の藁焼きの急速冷凍の物は半身の半分(四分の一)程度で、3千円から5千円くらいする。金のことはあまり言いたくないが、私は、ペロッと一腹食べてしまうので、私一人のために取り寄せるのは、どうも家族の手前気が引ける。

ニンニクのスライス、ポン酢、ネギのスライス、ポン酢に飽きたら無「塩」で食べる。酒はもちろん焼酎。至福の時間である。ああ高知の「ひろめ市場」が懐かしい。ちなみに横浜市戸塚区の国道1号「戸塚町」交差点に富塚八幡宮がある。そこに有名な芭蕉の「鎌倉をいきて出てけむはつ松魚」の碑がある。「松魚」は「鰹」の古語。


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伊勢佐木町の思い出。

2021-11-18 10:32:23 | 日記

11月5日(木)晴れ。

朝食は、メンチカツ、マカロニサラダ、目玉焼き。昼は、ちょっと忙しくて「カップ麺」で済ませた。夜は、友人らと関内のイタ飯屋「ビートレ」にて一献。私の中学、高校の同級生が某商店街の会長をしている。その町内会が「アド街天国」とかいう番組に取り上げられ、町会長としてその番組に協力することになった。ついでと言っては何だが、関内のサリーズバーに仲良しさんたちが集まって1960年代の伊勢佐木町の話をすることになって。一杯飲みながら歓談。

伊勢佐木町には、私の子供の頃は、「赤灯台の松喜屋」、「野澤屋」から名前の変わった「松坂屋」といったデパートがあり、ハレの日には母に連れられてそれらのデパートの食堂で、食事をするのが、楽しみだった。今は死語となったのが「イセブラ」。伊勢佐木町をぶらぶら歩くことで、今でいえばウインドー・ショッピングか。その伊勢佐木町の関内駅を背にして左側の路地には、怪しげなバーや様々な飲み屋があって、通称「親不孝通り」などと呼ばれていた。喫茶店は、有隣堂近くの「蜂」、「カトレア」(二階が同伴席だった)、長者町の交差点の近くには「ニュースエズ」。

伊勢佐木町の有名なジャズ喫茶「ピーナツ」、「アダムとイブ」、「ワシントンス・クエアー」。福富町には「ヨコハマMUGEN」と並びに「樽」、「JIGEN」などのディスコティックがあった。そんな思い出話で盛り上がった。

その後、愚妻も合流して、サリーズバーの前にある「ビートレ」にて食事会。思い出話に花が咲き、飲んだビールが5万本。(こういう歌があった)。楽しい一日だった。


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二つの「撃攘」。

2021-11-16 12:54:44 | 日記

11月4日(木)晴れ。

山平重樹さんが徳間文庫から上梓した『撃攘ー「東海のドン」平井一家八代目・河澄政照の激烈生涯』。この本の解説を書いたのが先輩の花房東洋氏。その解説文の全文を私の機関誌「燃えよ祖国」の第271号に掲載させて頂いた。山平さんの本とは全く関係がないが、野村先生が師と仰いだ人のお一人に、かつて新勢力社を主宰していた毛呂清輝先生がいる。その機関誌『新勢力』の「創刊20週年記念号」(昭和50年発行)の毛呂先生のエッセー「風塵雑記」の中に、三島由紀夫先生が亡くなられた当時、民族派の学生青年に良く読まれたのが、三島先生が自決になされた5年後に、やはり自裁した村上一郎(1920(大正9年・9月24日)~ 1975(昭和50年・3月29日は、日本の文芸評論家、歌人、小説家)である。日本浪漫派に共感し、彼の『北一輝論』は三島由紀夫が絶賛した。

「風塵雑記」の中に、「三月末、橘孝三郎氏の一周忌で水戸へ行く準備をしながら、フト朝刊を見ると村上一郎氏が日本刀で頸動脈をかき切って自殺した記事が出ていたので驚いた。村上氏は橘塾長と親しかったのでなんとなく因縁めいたものを感じた」という一文があり興味深く読んだ。そして、「村上一郎に『撃攘』という歌集のあることは知っていたが探してまで読む気になれなかった。が、ある日『撃攘』を探し求めて読んだ」。その歌集の中に三島先生を追悼して詠んだ歌が二十六首あるそうで、毛呂先生は五首紹介している。

「撃攘」とは、敵を撃ち払うことである。山平さんの同名の本と、内容は全く関係はないが、激する心を持った男たちを表現するにふさわしいタイトルだとしみじみ思った次第である。

夕方より歯医者。ランドマークタワーの書店で保坂正康の『「檄文」の日本近代史』(朝日新聞出版)という本を買ったが、目次を見た時に、なぜか「五・一五事件」と「経団連事件」の際の檄文が掲載されていないのでコノヤロウと思って買うのをためらったが、まあ資料用にと嫌々購入した。夜は休肝日とした。


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治めたまへる御代尊く。明治節。

2021-11-15 11:52:18 | 日記

11月3日(水)晴れ。明治節。

何が「文化の日」か。戦後の日本人は、物の本質を見極めようとしないで、何でも「マアマア」で済ませてきたような気がする。「紀元節」→「建国記念日」、「新嘗祭」→「勤労感謝の日」。「みどりの日」が「昭和の日」に代わったのは、良識の現れ。「憲法9条」も敵が攻めてこないということを前提にして、改正しようとすると「マアマア」。特に国防問題では、相手が見えなければ、きっと相手も自分が見えないだろうと思い込む(そう自分に言い聞かせる)。つまり 危険が迫ると、見えないように顔を手で覆うことと一緒で、現実逃避の「平和論者」が戦後の日本をダメにしてきた。もちろん保守政治家の中にもそういう人がいる。一度、鳥肌実の演説でも聞きなさい。まあ冗談ですが。

玄関に国旗を掲げ、明治天皇の遺徳を偲び明治神宮を遥拝する。

夜は、久しぶりに西横浜(藤棚)の「やまと」へ仲良しさんご夫妻と待ち合わせての一献会。しばらく飲んでから近くの「愛福楼」へ転戦。コロナに気が緩まないように注意しての夜だった。


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