昨年の11月のことになりますが,亀山郁夫の『ドストエフスキー 五大長編を解読する』という本を読み終えました。これはNHKの100分de名著というテレビ番組の別冊として出版されているもの。この100分de名著のシリーズは何冊か出ていて,その中には読んでみたいものがいくつかありました。最初にどれを読むのがよいかと考えていたのですが,これを選択しました。出版されたのは2022年1月です。
亀山は100分de名著の講師を2回務めています。最初が2013年2月に放送された『罪と罰』で,次が2019年12月に放映された『カラマーゾフの兄弟』です。この本の第1章は『罪と罰』,第3章が『カラマーゾフの兄弟』で,このふたつはそのときの番組のテキストに加筆と修正を加えたもの。五大長編のうち残るみっつの『白痴』と『悪霊』と『未成年』は第2章にまとめられていて,この部分はこの本のために書き下ろされたものです。
テレビ番組という不特定多数を相手にしたものですから,とても難解な内容が含まれているというわけではありませんが,だからといってドストエフスキーの小説を読んでいないという人には十分には理解できないと思います。したがって,テレビでの講義とはいえ,入門書のような性格を有した本ではありません。
一方で,亀山がどのようにドストエフスキーの小説を読解しているのかということを,ある程度以上には知っているという人にとっては,やや物足りなく感じられるかもしれません。亀山は同じNHK出版から『ドストエフスキー 父殺しの文学』を出版しているわけですが,たとえばそちらをよく読みこんでいたとすると,こちらの内容はそれほど深みが感じられないということになるかもしれません。なので読む順番からしたら,こちらを先に読んで,その後に『ドストエフスキー 父殺しの文学』を読む方がいいかもしれません。この本はその導入というような性格を明らかにもっていますから,いきなりそれを読んだら難しく感じられるかもしれない『ドストエフスキー 父殺しの文学』を,より容易に理解できるのではないかと思います。
内容でとくに気になった部分に関しては,これから順に紹介していくことにします。
デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueを振り返れば,デカルトは自身の思惟Cogitatio,とくに思惟した内容はとにかく疑ったのです。それは,自身の精神mensが能動的に考えるconcipere場合も,受動的に表象するimaginari場合も含めて思惟作用とその思惟内容をすべて疑ったという意味です。その結果effectusとして疑い得ないとした事柄が,すべてを疑っている自分の精神は確実に存在しているということでした。ですからデカルトがこのことを発見したときは,自分の精神が,とくにすべてを疑っている自分の精神が,それ以外のすべての事物から切り離されたものとして発見されたのです。これに対して第二部公理二は,自分が思惟することを現実的に存在する人間は知っているということをいっているのであり,そのことだけを確実に知っているということを意味しているわけではありません。これはそれ自体で明らかといえるでしょう。ですからデカルトが発見したすべてを疑っている自分の精神というのは,デカルトが確実に存在すると認識できる唯一のものですから,確実に存在する自分の存在existentiaのすべてを意味します。しかしスピノザの場合は,確実に存在する自分の存在のすべてを思惟する精神に還元できるわけではありません。それは自分が確実に知っている事柄のすべてではなく,その一部であるからです。ですからこの場合は単に自分が思惟していることを知っているからといって,自分の思惟内容まで疑う必要はありません。要するに方法論的懐疑を実行する必要はないのです。よってそうした疑いを解消するための何か,デカルトの場合でいえば完全な存在としての神Deusのようなものをもち出してくる必要もないのです。
吉田は,スピノザがこだわっているのは,むしろ私も私が思惟している内容も存在しているということの不可思議さにあったといっています。そしてその理由を,私も私が認識している世界も,その本性essentiaには存在が含まれていないからだとしています。いい換えれば,第一部定義一により,自己原因causam suiではないものが現実的に存在しているということの不可思議さにスピノザはこだわったと吉田はみているわけです。このことの正当性はここでは問うことはせず,吉田のさらなる探究をみていきます。
亀山は100分de名著の講師を2回務めています。最初が2013年2月に放送された『罪と罰』で,次が2019年12月に放映された『カラマーゾフの兄弟』です。この本の第1章は『罪と罰』,第3章が『カラマーゾフの兄弟』で,このふたつはそのときの番組のテキストに加筆と修正を加えたもの。五大長編のうち残るみっつの『白痴』と『悪霊』と『未成年』は第2章にまとめられていて,この部分はこの本のために書き下ろされたものです。
テレビ番組という不特定多数を相手にしたものですから,とても難解な内容が含まれているというわけではありませんが,だからといってドストエフスキーの小説を読んでいないという人には十分には理解できないと思います。したがって,テレビでの講義とはいえ,入門書のような性格を有した本ではありません。
一方で,亀山がどのようにドストエフスキーの小説を読解しているのかということを,ある程度以上には知っているという人にとっては,やや物足りなく感じられるかもしれません。亀山は同じNHK出版から『ドストエフスキー 父殺しの文学』を出版しているわけですが,たとえばそちらをよく読みこんでいたとすると,こちらの内容はそれほど深みが感じられないということになるかもしれません。なので読む順番からしたら,こちらを先に読んで,その後に『ドストエフスキー 父殺しの文学』を読む方がいいかもしれません。この本はその導入というような性格を明らかにもっていますから,いきなりそれを読んだら難しく感じられるかもしれない『ドストエフスキー 父殺しの文学』を,より容易に理解できるのではないかと思います。
内容でとくに気になった部分に関しては,これから順に紹介していくことにします。
デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueを振り返れば,デカルトは自身の思惟Cogitatio,とくに思惟した内容はとにかく疑ったのです。それは,自身の精神mensが能動的に考えるconcipere場合も,受動的に表象するimaginari場合も含めて思惟作用とその思惟内容をすべて疑ったという意味です。その結果effectusとして疑い得ないとした事柄が,すべてを疑っている自分の精神は確実に存在しているということでした。ですからデカルトがこのことを発見したときは,自分の精神が,とくにすべてを疑っている自分の精神が,それ以外のすべての事物から切り離されたものとして発見されたのです。これに対して第二部公理二は,自分が思惟することを現実的に存在する人間は知っているということをいっているのであり,そのことだけを確実に知っているということを意味しているわけではありません。これはそれ自体で明らかといえるでしょう。ですからデカルトが発見したすべてを疑っている自分の精神というのは,デカルトが確実に存在すると認識できる唯一のものですから,確実に存在する自分の存在existentiaのすべてを意味します。しかしスピノザの場合は,確実に存在する自分の存在のすべてを思惟する精神に還元できるわけではありません。それは自分が確実に知っている事柄のすべてではなく,その一部であるからです。ですからこの場合は単に自分が思惟していることを知っているからといって,自分の思惟内容まで疑う必要はありません。要するに方法論的懐疑を実行する必要はないのです。よってそうした疑いを解消するための何か,デカルトの場合でいえば完全な存在としての神Deusのようなものをもち出してくる必要もないのです。
吉田は,スピノザがこだわっているのは,むしろ私も私が思惟している内容も存在しているということの不可思議さにあったといっています。そしてその理由を,私も私が認識している世界も,その本性essentiaには存在が含まれていないからだとしています。いい換えれば,第一部定義一により,自己原因causam suiではないものが現実的に存在しているということの不可思議さにスピノザはこだわったと吉田はみているわけです。このことの正当性はここでは問うことはせず,吉田のさらなる探究をみていきます。