スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

和歌山グランプリ&存在の先行

2025-01-13 16:47:54 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは菅田‐大槻の宮城,古性‐山口の近畿中部,石塚‐東口‐椎木尾の和歌山,松本‐山田の西国。
 菅田がスタートを取って前受け。3番手に古性,5番手に松本,7番手に石塚で周回。残り2周のホームから石塚が動いていこうとすると先んじて古性が動き,菅田を叩きました。さらに松本が動いてバックでは古性の前に。その外から石塚が発進。松本が東口のインで粘って打鐘。その後ろも山田と椎木尾で併走となり,以下は古性‐山口‐菅田‐大槻の並びに。番手戦はホームで松本が制し,番手を奪われた東口が松本の後ろに。バックで松本が番手捲りに出て東口がそれに続きました。その外から古性の捲り。直線に入ってから松本を差し切った古性が抜け出して優勝。2着争いは大接戦でしたが番手を奪った松本が半車身差で2着。松本マークの山田が8分の1車輪差の3着で古性マークの山口が8分の1車輪差で4着。古性の後ろから捲り追い込んだ菅田が半車輪差の5着。
 優勝した大阪の古性優作選手はグランプリから連続優勝。記念競輪は富山記念以来の13勝目。和歌山記念は昨年からの連覇で2勝目。このレースは脚力で古性が断然の上位。ただ和歌山勢の邪魔はできないでしょうから,そこがどう出るかといったところ。松本が地元勢に競り込んで,番手を奪っての発進でしたから,届くかどうか心配なところもありましたが,問題ありませんでした。結果的には隊列が短くなった分よかったのかもしれません。菅田を叩いた後で菅田がインから巻き返そうとしたのですが,その巻き返しを許さなかったのがとても大きかったと思います。

 Deusが世界を創造するcreareというときには,まず神が存在して,その後に創造された世界が存在するようになるということが必要とされます。したがってこの場合は,単に原因causaである神が世界に対して本性naturaの上で先立っているだけでは十分ではないのであって,存在existentiaの上でも神が世界に先立っていなければなりません。しかしすでにみたように,スピノザの哲学では,原因である神が結果effectusである直接無限様態に対して本性の上では先立ちますが,存在の上で先立つわけではありません。同様に,原因である直接無限様態は本性の上では結果である間接無限様態に先立ちますが,存在の上では先立つわけではありません。純粋に存在だけに目を向けた場合には,神も神の本性essentiaを構成する属性attributumも,直接無限様態も間接無限様態も,同じ意味で永遠aeternumであるといわれるのであり,永遠から永遠にわたって存在するという意味においては,区別はないからです。なのでスピノザの哲学では,僕たちが普通に解するような意味においては,神が世界を創造するということが否定されていると解さなければなりません。他面からいえば,神がある事柄を意志するからそのような世界が創造されるというわけではないだけでなく,神がある事柄を認識するcognoscereから,そう認識された世界が創造されるというわけでもないのです。第二部定理七系でいわれているように,神が思惟する力potentiaは神が現実的に行動する力と等しいのであって,それを上回っているわけではありません。神がある事柄を思惟したらその事柄は現実的に生じているのですが,それは前者が原因で後者が結果であるという関係にあるわけではなく,ある事柄が神の力によって現実的に生じたら,そのことの観念ideaも神のうちにあるという以上でも以下でもないのです。
                       
 このように考えれば,スピノザの思想は主意主義的でないだけでなく,主知主義的でもないということが理解できると思います。神の認識cognitioは現実的世界の存在に対して原因でも結果でもなく,単に同一個体であるというだけであるからです。ただそうはいっても,スピノザは神に自由意志voluntas liberaを認めないのですから,どちらかといえば主意主義よりは主知主義の方に親和性があるのは確かです。
コメント
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