スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

銅門賞&第一部公理七

2007-08-19 22:32:51 | 競輪
 小田原記念の2日目優秀の銅門賞(動画)ですが,並びに予想と異なるところがあり,静岡は山内選手が前で新田選手が後ろでした。
 前受けしたのは佐藤選手。まず残り2周のホームで武田選手が抑えて前に。これを吉川選手がバックで叩くと打鐘から先行。武田選手はインで粘る構えを見せ,番手は高木選手が確保しましたが,出口選手が浮いて3番手に武田選手。この動きで山内選手も浮く格好となり,新田選手は岩津選手を追走する形。佐藤選手は後手を踏み,この時点でアウト。バックから武田選手が発進して捲りきりましたが,このライン追走の形になった新田選手も早めに踏み出し,直線も外を伸びて捕えて1着。武田選手が2着で追走の岩津選手が3着でした。
 新田選手にとって小田原は得意な競輪場のひとつ。それもありますが,ここ最近は好調だとみた方がよいのではないかと思います。山内選手に最後までこだわらなかったのもよかったと思いますし,好調のときは自分で動いた方がよいのではないでしょうか。
 逆に佐藤選手は少しほかの選手の動きを見すぎた感があります。出入りの激しい展開は経験のある選手ほど有利と思いますが,このあたりは克服していかなければならない課題なのかもしれません。

 第一部定理八別の証明の前提となっている事柄のうち,事物が有限であるということが,その事物の存在に関しての部分的な否定であるということについては,『エチカ』の別の部分を検討することによって,正しいことを説明できると僕は考えています。それが第一部公理七。それはこのようになっています。
 「存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない」。
 しかしまず先に,この公理が正当であるということを説明しておく必要があるでしょう。
 もしもあるものがあって,そのものの本性(本質)にそのものの存在が含まれることを知性が認識する場合,その知性は同時にその事物が永遠のうちに存在することを認識します。いい換えれば,ある精神が何らかの事物Xについて真の観念を有し,このときXの本性にXの存在が含まれているならば,この精神はXが永遠のうちに存在するということについては疑い得ないということになるでしょう。このことは,真理というものを一般的に考えた場合には,真理の規範とは真理そのものであるということ,あるいは第二部定理四三から考えてもそうでなければならないことになります。
 このことから,知性がその本性にその存在が含まれているものを概念する場合には,そのものが存在しないと考えることができないということが明らかだと思います。したがってこれを逆に考えれば,もしも知性があるものについて,それが存在しないことを考えられ得る場合には,そのものの本性にはそれの存在は含まれないということになり,この公理の内容の正しさが保証されるといえると思います。
コメント
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