女流王位戦の挑戦者決定戦。
振駒で先手になったのは矢内理絵子女流名人。これに対して石橋幸緒女流四段はごきげん中飛車。先手は丸山ワクチンで対抗しました。
結果的にいうとこの将棋,序盤の折衝で勝負の大半が決してしまいました。丸山ワクチンに対しては向飛車に振り直すのが後手の常套手段ですが,2筋からの反撃に対して先手が32手目に▲2七歩と受けたところでは早くも作戦負け。感想戦によればさらにこの後,53手目に▲6五歩と仕掛けてでたのも悪く,ここは千日手にするよりなかったそうです。ただ,先手の方から千日手を目指すというのは,指している方ももちろんでしょうが,観戦している方としてもあまり面白いとはいえません。
この後,先手はまったくよいところがなく,94手目の△5八との局面では後手が金得でと金ができて馬もいるというほぼ必勝の形勢。さらに進んで102手目の△2六歩も慎重な一手で後手の快勝となりました。
これで石橋四段が挑戦権獲得。矢内名人は名人獲得以降,女流の公式戦ではリーグ戦や番勝負を除くとほとんど負けていませんでしたので,それにストップをかけたという意味でも石橋四段には大きな1勝であったといえるのではないかと思います。
明日は王座戦五番勝負の第一局。久保利明八段は間違いなく振飛車ですので,戦型の選択権は羽生善治王座にあるといえそうです。
動物と馬との関係を命題で示せば,動物は馬であるというのが偽の命題で,馬は動物であるというのが真の命題です。したがって,これを否定文の命題で表すと,動物は馬ではないは真の命題となり,馬は動物であるというのは偽の命題であるということになります。
そこでこれを限定と否定との関係で考えてみれば,あらゆる限定が否定であるということと同様に,あらゆる否定が限定であるということもまた正しいと仮定する限り,動物は馬によって否定されているので,動物が馬によって限定され,馬は動物によっては否定されないので,馬が動物によって限定されるということはないということになります。
ところが,一見して分かるように,こうしたことを主張するのは明らかに不条理だと思います。なぜなら,馬というのは動物の一種類なのであって,仮に動物というのをひとつのカテゴリーとして概念し,これをある全体とみなすならば,馬はこの全体の中の一部分を占めるわけです。つまり,動物が馬によって限定され,馬は動物によっては限定されないと主張するのは,実に全体がその一部分によって限定され,部分は全体によっては限定されないと主張しているようなものなのです。しかし,全体はその部分の集合ですから,その部分を含み,かつその部分よりも広きにわたります。したがって,部分が全体によって限定されるのが本当であって,全体が部分によって限定されるなどということがあろう筈もありません。よって,否定と限定との関係に関しては,さらに詳しくこれを考察してみる必要があるといえそうです。
パソコンがかなり不調です。今日は何とか投稿できましたが,明日以降,急に休む可能性もありますのでご了承ください。
振駒で先手になったのは矢内理絵子女流名人。これに対して石橋幸緒女流四段はごきげん中飛車。先手は丸山ワクチンで対抗しました。
結果的にいうとこの将棋,序盤の折衝で勝負の大半が決してしまいました。丸山ワクチンに対しては向飛車に振り直すのが後手の常套手段ですが,2筋からの反撃に対して先手が32手目に▲2七歩と受けたところでは早くも作戦負け。感想戦によればさらにこの後,53手目に▲6五歩と仕掛けてでたのも悪く,ここは千日手にするよりなかったそうです。ただ,先手の方から千日手を目指すというのは,指している方ももちろんでしょうが,観戦している方としてもあまり面白いとはいえません。
この後,先手はまったくよいところがなく,94手目の△5八との局面では後手が金得でと金ができて馬もいるというほぼ必勝の形勢。さらに進んで102手目の△2六歩も慎重な一手で後手の快勝となりました。
これで石橋四段が挑戦権獲得。矢内名人は名人獲得以降,女流の公式戦ではリーグ戦や番勝負を除くとほとんど負けていませんでしたので,それにストップをかけたという意味でも石橋四段には大きな1勝であったといえるのではないかと思います。
明日は王座戦五番勝負の第一局。久保利明八段は間違いなく振飛車ですので,戦型の選択権は羽生善治王座にあるといえそうです。
動物と馬との関係を命題で示せば,動物は馬であるというのが偽の命題で,馬は動物であるというのが真の命題です。したがって,これを否定文の命題で表すと,動物は馬ではないは真の命題となり,馬は動物であるというのは偽の命題であるということになります。
そこでこれを限定と否定との関係で考えてみれば,あらゆる限定が否定であるということと同様に,あらゆる否定が限定であるということもまた正しいと仮定する限り,動物は馬によって否定されているので,動物が馬によって限定され,馬は動物によっては否定されないので,馬が動物によって限定されるということはないということになります。
ところが,一見して分かるように,こうしたことを主張するのは明らかに不条理だと思います。なぜなら,馬というのは動物の一種類なのであって,仮に動物というのをひとつのカテゴリーとして概念し,これをある全体とみなすならば,馬はこの全体の中の一部分を占めるわけです。つまり,動物が馬によって限定され,馬は動物によっては限定されないと主張するのは,実に全体がその一部分によって限定され,部分は全体によっては限定されないと主張しているようなものなのです。しかし,全体はその部分の集合ですから,その部分を含み,かつその部分よりも広きにわたります。したがって,部分が全体によって限定されるのが本当であって,全体が部分によって限定されるなどということがあろう筈もありません。よって,否定と限定との関係に関しては,さらに詳しくこれを考察してみる必要があるといえそうです。
パソコンがかなり不調です。今日は何とか投稿できましたが,明日以降,急に休む可能性もありますのでご了承ください。