GHCジュニアタッグもあったわけですが,NOAHの8~9月シリーズの最大の目玉は,GHCヘビー級の挑戦者を決めるリーグ戦。これは参加選手がABの両リーグに分かれて戦い,各リーグの優勝者が,挑戦権をかけて戦うというもの。全日本プロレス時代は春にチャンピオンカーニバルでシングル,暮れに世界最強タッグ決定リーグと,それぞれ年に2回のリーグ戦が開催されていたのですが,NOAHになってからは,この前の日テレ杯ジュニアタッグのリーグ戦が初めてのリーグ戦。したがって,ヘビー級のリーグ戦,シングルのリーグ戦ともにNOAHでは初の試みとなるもの。またこうしたリーグ戦がありましたので,ジュニアタッグの選手権試合がメインで行われたのが,とくに特筆すべき出来事であったともいえると思います。
このうちAブロックは先にすべての日程が終了。斎藤彰俊選手と丸藤正道選手が得点6で並んだために,9日の日本武道館大会でこのブロックの優勝者決定戦が行われました。
リーグの本戦では斎藤選手が丸藤選手を降しています。もしそこで丸藤選手が勝っていれば無条件でAブロック優勝でしたので,丸藤選手にとっては雪辱戦。ただ,実際に勝っているということに伴う自信は大きかったのか,僕には斎藤選手が押している印象でしたし,また試合の展開もよく見えていたように感じました。ただそれが勝負に直結しないというのもまたプロレスの面白さのひとつではあり,事実,この試合も最後はトリッキーな動きから丸藤選手がうまく丸め込んで勝ち,Bブロック優勝者との挑戦者決定戦に駒を進めました。
全体とその一部を構成するような部分との関係は,全体が部分を限定し,部分の方が全体を限定するということはないということについては,次のような認識論的な視点を導入することによって,さらに明瞭に理解することができるのではないかと思います。
いま,Yがあって,これがXの一部を構成しているとします。すると,平行論からの帰結として,Yの観念はXの観念のうちにあるということになります。いい換えれば,この場合のYの観念は,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。またこのことは,一般にYの本性がXの本性のうちに含まれるという形でXとYが実在するという仮定からも明らかで,この場合はとくに神の観念に関連付けるということをしなくても,一般に知性のうちにYの真の観念がある場合には,この知性は同時にXの真の観念も有していなければならないということから十分に理解できると思います。そもそも,馬の本性が動物の本性に含まれるのであれば,動物の本性を十全に認識せずして馬の本性を十全に認識することは不可能だといえるからです。
もちろん,一般にある部分の原因となっているものがその全体であるということはできないと僕は思います。したがって,第一部公理四の意味において,部分の認識が全体の認識に依存するということはできないだろうと思います。しかし,平行論に従う限り,部分の認識が全体の認識のうちにあるならば,それを全体と部分という関係において限定するものの認識なしに限定されるものの認識はあり得ないといえると思いますので,やはりこの場合には全体の方が部分を限定するということになると考えます。
投稿可能な状態のときに早めに投稿しておきます。
このうちAブロックは先にすべての日程が終了。斎藤彰俊選手と丸藤正道選手が得点6で並んだために,9日の日本武道館大会でこのブロックの優勝者決定戦が行われました。
リーグの本戦では斎藤選手が丸藤選手を降しています。もしそこで丸藤選手が勝っていれば無条件でAブロック優勝でしたので,丸藤選手にとっては雪辱戦。ただ,実際に勝っているということに伴う自信は大きかったのか,僕には斎藤選手が押している印象でしたし,また試合の展開もよく見えていたように感じました。ただそれが勝負に直結しないというのもまたプロレスの面白さのひとつではあり,事実,この試合も最後はトリッキーな動きから丸藤選手がうまく丸め込んで勝ち,Bブロック優勝者との挑戦者決定戦に駒を進めました。
全体とその一部を構成するような部分との関係は,全体が部分を限定し,部分の方が全体を限定するということはないということについては,次のような認識論的な視点を導入することによって,さらに明瞭に理解することができるのではないかと思います。
いま,Yがあって,これがXの一部を構成しているとします。すると,平行論からの帰結として,Yの観念はXの観念のうちにあるということになります。いい換えれば,この場合のYの観念は,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。またこのことは,一般にYの本性がXの本性のうちに含まれるという形でXとYが実在するという仮定からも明らかで,この場合はとくに神の観念に関連付けるということをしなくても,一般に知性のうちにYの真の観念がある場合には,この知性は同時にXの真の観念も有していなければならないということから十分に理解できると思います。そもそも,馬の本性が動物の本性に含まれるのであれば,動物の本性を十全に認識せずして馬の本性を十全に認識することは不可能だといえるからです。
もちろん,一般にある部分の原因となっているものがその全体であるということはできないと僕は思います。したがって,第一部公理四の意味において,部分の認識が全体の認識に依存するということはできないだろうと思います。しかし,平行論に従う限り,部分の認識が全体の認識のうちにあるならば,それを全体と部分という関係において限定するものの認識なしに限定されるものの認識はあり得ないといえると思いますので,やはりこの場合には全体の方が部分を限定するということになると考えます。
投稿可能な状態のときに早めに投稿しておきます。