年末の大一番にして競輪界最大のレース,競輪グランプリ。今年の舞台は立川競輪場。並びは佐藤-山崎-伏見の北日本,平原-武田の関東,村上義弘-村上博幸-市田の近畿で海老根が単騎。
佐藤が前に構え,村上義弘が中団,7番手に平原,最後尾に海老根という隊列で打鐘までだれも動かず,ホームから佐藤が先行。バックで村上義弘の捲りに山崎が併せ,村上義弘は失速しましたが,村上博幸はうまく伏見を極めて山崎の後ろに。直線は山崎と村上博幸の優勝争いとなりましたが,ゴール前で僅かに山崎を捕えた村上博幸の優勝。山崎が2着で伏見が3着。
優勝した京都の村上博幸選手は日本選手権を優勝してここへの出走権を確保。その後,風光るを優勝していて,ビッグは4勝目。今日はあまりいい展開でもなかったと思うのですが,俊敏な動きで伏見を封じたのが勝因でしょう。最強クラスまで成長したのは今年になってからといえる選手だと思いますので,来年も引き続いての活躍が期待されます。
一時帰宅を終えた母を,やはりひとりで送り返すわけにはいきませんから今度は磯子中央病院まで送って行くことになります。予定では午後2時ですが,これは病院に到着するという時間。したがって母と一緒に家を出たのは午後1時半少し前でした。
前日は母の希望でタクシーで戻りましたので,この日も僕はそのつもりでいました。ところが母はバスで病院まで行くと言い出したのです。おそらくこれは,1日だけですが家で過ごすことにより,実質的な支障というものがほとんどないということが母自身にも確認できたので,バスに乗っても大丈夫ではないかという自信が母の精神のうちに生じたからではないかと思います。母にそう確認したわけではありませんが,もしも本当にそうであったのだとするならば,今回の一時帰宅による最大の効果は,実際に母がそれまでとほとんど変わらないような生活を,少なくとも家の中では送れたということではなく,そうした自信が母の中に生じたということであったと僕は思っています。
ということで母の希望通りにバスで磯子中央病院まで戻りました。バスは混雑していて座ることができませんでした。僕はずっと母の様子を窺っていましたが,何の問題もありませんでした。実際に母に後で聞いてみたところ,前日のタクシーの乗り降りの際に感じたような不快さも感じずにすんだとのことです。ただこれは,バスの乗り降りというのは普通に歩くようなスタイルで行うことが可能ですが,タクシーの場合には頭も上げ下げしなければならず,その上下運動が不快感の原因であったと考えることもできますので,この1日の間にそれだけ母が回復したのだとはいいきれない部分もあるかと思います。
翌12月10日からは,また磯子中央病院への見舞いが再開されました。とはいえ,一時帰宅は1泊でした。つまり8日も9日も僕は母の送り迎えで病院には行っているわけですから,結局のところ,僕は磯子中央病院に行かなかった日はないということになります。ただしこの日は,病院に行く前に,区役所へ赴いています。これは相続のために必要となる書類をもらうためでした。ただ,事情があり,この日のうちにはそのすべてを揃えるということができなかったのです。
佐藤が前に構え,村上義弘が中団,7番手に平原,最後尾に海老根という隊列で打鐘までだれも動かず,ホームから佐藤が先行。バックで村上義弘の捲りに山崎が併せ,村上義弘は失速しましたが,村上博幸はうまく伏見を極めて山崎の後ろに。直線は山崎と村上博幸の優勝争いとなりましたが,ゴール前で僅かに山崎を捕えた村上博幸の優勝。山崎が2着で伏見が3着。
優勝した京都の村上博幸選手は日本選手権を優勝してここへの出走権を確保。その後,風光るを優勝していて,ビッグは4勝目。今日はあまりいい展開でもなかったと思うのですが,俊敏な動きで伏見を封じたのが勝因でしょう。最強クラスまで成長したのは今年になってからといえる選手だと思いますので,来年も引き続いての活躍が期待されます。
一時帰宅を終えた母を,やはりひとりで送り返すわけにはいきませんから今度は磯子中央病院まで送って行くことになります。予定では午後2時ですが,これは病院に到着するという時間。したがって母と一緒に家を出たのは午後1時半少し前でした。
前日は母の希望でタクシーで戻りましたので,この日も僕はそのつもりでいました。ところが母はバスで病院まで行くと言い出したのです。おそらくこれは,1日だけですが家で過ごすことにより,実質的な支障というものがほとんどないということが母自身にも確認できたので,バスに乗っても大丈夫ではないかという自信が母の精神のうちに生じたからではないかと思います。母にそう確認したわけではありませんが,もしも本当にそうであったのだとするならば,今回の一時帰宅による最大の効果は,実際に母がそれまでとほとんど変わらないような生活を,少なくとも家の中では送れたということではなく,そうした自信が母の中に生じたということであったと僕は思っています。
ということで母の希望通りにバスで磯子中央病院まで戻りました。バスは混雑していて座ることができませんでした。僕はずっと母の様子を窺っていましたが,何の問題もありませんでした。実際に母に後で聞いてみたところ,前日のタクシーの乗り降りの際に感じたような不快さも感じずにすんだとのことです。ただこれは,バスの乗り降りというのは普通に歩くようなスタイルで行うことが可能ですが,タクシーの場合には頭も上げ下げしなければならず,その上下運動が不快感の原因であったと考えることもできますので,この1日の間にそれだけ母が回復したのだとはいいきれない部分もあるかと思います。
翌12月10日からは,また磯子中央病院への見舞いが再開されました。とはいえ,一時帰宅は1泊でした。つまり8日も9日も僕は母の送り迎えで病院には行っているわけですから,結局のところ,僕は磯子中央病院に行かなかった日はないということになります。ただしこの日は,病院に行く前に,区役所へ赴いています。これは相続のために必要となる書類をもらうためでした。ただ,事情があり,この日のうちにはそのすべてを揃えるということができなかったのです。